主婦エッセイスト、ほししま ゆあさん 30歳で両卵巣・子宮を失った未婚の女性が理想の伴侶とめぐり合うまでのいばら道 「幸せな結婚」への執念を生きるエネルギー
最大のピンチは治療3年目
いちばん大きなピンチが訪れたのは、3年目に入ってからしばらくたったときで、13回目の抗がん剤投与を受けるために入院したときだった。
この頃になると薬を使って白血球を何とか3000台にのせるパターンになっていたが、こうして作られた白血球はどんどん脆弱になっていくため13回目の抗がん剤投与を行うと数値が1000を割り込む事態となった。ここまで下がると感染症に対する抵抗力が著しく低下する。それだけでなく、血小板やヘモグロビンの数値も、脳出血や内臓内出血が起きやすくなるレベルに下がっていた。
こうなると特別なケアが必要になるため、ゆあさんは婦人科病棟の一番奥にある狭い個室に移され、無菌室状態で造血機能を回復させる治療を受けることになった。
「感染症を避けるため、いったんそこに入ると部屋の外にでることができないんですよ。独房状態です(笑)。見舞いに来てくれた両親や妹も、入室時に手を消毒し、緑色の簡単な抗菌服みたいなのと、ヘアキャップを着用のうえで部屋に入らないといけないんですね。それで妹はただ事じゃないと思ったようで『お姉ちゃん、本当は白血病なんじゃないの』と言って泣くんですよ。
抗がん剤で私の体はぼろぼろになっていたので、妹は、私がこのまま死んでしまうんじゃないかと思ったんじゃないですか。私自身も、無菌状態の個室に入れられてからは、このまま抗がん剤に体を破壊されていけば、まともな社会生活を送れない体になるんじゃないかと危惧するようになっていたので、抗がん剤を止めることを真剣に考えるようになりました」
自分の意志で抗がん剤治療中止

ゆあさんがまともな社会生活を送れない体になることを何よりも恐れたのは、幸せな結婚生活を手に入れるには、健康な体でいることが不可欠だと言う思いが強かったからだ。
彼女の中に結婚願望が芽生えたのは、同室になった患者さんたちのところに、笑顔でやってくる旦那さんがまぶしく見えて仕方がなかったからだ。
彼女のもとにもほぼ毎日、自宅から片道1時間以上かかるのを苦にもせず両親や妹が交代で見舞いに来て、できる限りのことをしてくれていた。勤務先の会社も太っ腹で、ゆあさんがどれだけ休んでも解雇したりせず応援する姿勢を崩さなかった。
このように、ゆあさんはたいへん人には恵まれていた。しかし、いくら家族愛や職場の人たちの善意が心温まるものであっても、女としての幸せを噛みしめることはできない。見舞いに来た旦那さんが奥さんを笑顔で励ます姿を目にするたびに、結婚願望は高まっていった。
彼女の賞賛すべき点は、夢を夢で終わらせず行動に出たことだ。
最初に起こした行動は自分の意思で抗がん剤治療にピリオドを打ったことだ。それが実現したのは14回目の抗がん剤投与のため入院したときだった。
「それまで強烈な吐気に散々苦しめられてきたので、もう体が受け付けなくなっていたんですね。点滴のハリを血管に差し込んだだけで体が拒絶反応を起こして気持ち悪くなり、何度も吐いちゃったんです。苦しくてまだ昼間なのに何度ナースコールを押したかわかりません。
主治医の先生がそれを見て『その精神状態じゃ、治療は無理だから、帰っていいよ』と言ってくれたんですよ。このチャンスを逃がす手はないので『そうさせていただきます。少し落ち着いたらまた来ますので』と言って、それっきり戻りませんでした(笑)」
結婚紹介センターの手を借りて

35歳婚約した際。日光江戸村にて

37歳当時。長崎のハウステンボスへ行ったとき
次に取った行動は、大手の結婚紹介センターの会員に登録したことだ。卵巣がんになるまでは恋愛結婚至上主義者だったゆあさんだが、そのこだわりを捨ててお見合い産業の手を借りることにしたのは、自分が設定した条件をクリアし、かつ、子供を生めないハンデを承知で結婚してくれる男性は人数的に限られるので、なるべく多くの候補者軍にメッセージを発信できるところがいいと思ったからだ。それに加え、優良企業の中には従業員福祉の一貫として大手結婚情報センターの法人会員になっているところがたくさんあるので、よい男性とめぐり合うチャンスも高くなるような気がしたのだ。
多くの会員の中から条件にあった候補者を見つけ出すには、会員向けの情報誌にある自己PR広告を掲載して反応を待つのが一番だ。
ゆあさんは「私はDinksを望む方との結婚を考えています。自分の子供を持つのが怖い方、子持ちになりたくない方、子供嫌いな方、私と結婚して、2人だけの裕福で、世界のどのカップルにも負けないアツアツな2人になりましょう。私はだれにも負けないくらいあなたを愛し、そして幸せにします。子供嫌いはけっして悪いことではないのです」とかなりテンションの高いメッセージを書いた。さらに「相手に望む条件」のところにも「人生に置いて自分は親になりたくない方、子供が嫌いな方、婚歴不可、非喫煙、非飲酒、大学卒、身長170センチ以上」と記入して掲載窓口宛に送付した。
卵巣・子宮を失っても結婚できる

38歳。銚子で、妹と妹の彼氏と

42歳、2006年5月スペインへ行ったとき

取材を終えて。有意義な時間でしたと語るほししまさん
会員誌にこのメッセージが掲載されると5、6通の応募があった。その中には名古屋の歯医者さんもいたようだが、彼女が選んだのは唯一彼女が示した条件を満たしていない今のご主人だった。
彼は高卒だった。しかし高度な専門知識を要求される技術職で、勤務先や収入も申し分なかったのでそんなことはまったく気にならなかった。
「やはり、決定的な要因になったのは、子供はいらないと考えている女性との結婚を望んでいたことですね。価値観なんかも不思議と合うし、飾らない誠実な人柄も好感が持てました。
ただ、私は『きれいだよ』とか『可愛いよ』と言って欲しいタイプなんですが、そういうことが、いくら突っついてもでてこないタイプなんですよ。結婚した当初はそれが不満だったんだけど、一緒に暮らしているうちに、彼はそんな言葉で愛情表現するタイプではないだけで、時がたつにつれて彼は彼なりに必死に私に向き合ってくれていることが実感できるようになりました」
そう感じるようになったのは、卵巣を失った後遺症で更年期障害に苦しむようになったときだ。ひどい鬱になって、家で何もせずに引きこもり状態になっているゆあさんを、旦那さんは気遣い、心療内科に連れて行ったり、旅行に連れ出したりして、物資両面で支え続けた。
それによってドン底の状態から抜け出した彼女は、結婚で望外の幸せをつかんだことを実感するようになり、自分と同じ境遇の女性たちにも、子供を生めない体でも、自分から積極的に求めれば幸せな結婚生活を手にできることを知らしめたくなった。その思いは日増しに強くなり、彼女はブログを起ち上げて、若くして卵巣がんになった女性たちに自ら語り始めた。
「卵巣を失ったから、もう女の幸せをつかめないと勝手に決め込んでいる人が多すぎるんですよ。30歳で子供の生めない体になってもまだ人生は50年もあるんです。精神的にも、経済的にも、自分の支柱になってくれる人がいるのといないのとでは全然違いますから。最近は結婚に関する相談も寄せられるようになったんで、日帰りでいけるところであれば会いに行くようにしているんです。それが自分の使命だと思っていますから」
最近はがん患者さんに対する心のケアの必要性が広く認識されるようになった。しかし、生殖機能を失った未婚の卵巣がん患者さんの場合、心のケアだけでは十分といえず、結婚のケアまで踏み込んだフォローが不可欠だ。その意味でゆあさんが伝道者的な役割を担い始めたことは注目に値する。ただ、現在は更年期様のうつに襲われ3度目の試練と闘っており、活動は一時休止中という。
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