物言わぬがん患者から考えるがん患者へ変身した元巨人軍投手・横山忠夫

取材・文:吉田健城
発行:2005年12月
更新:2013年8月

迷いを断ち切った兄貴分の言葉

写真:兄貴分と慕う堀内さんと
兄貴分と慕う堀内さんと。妻の敦子さんとともに

このジャイアンツの監督に就任したばかりの兄貴分が今度は、迷いに迷っていた横山さんの背中を押してくれることになるのだ。

「みんなで朝食をとったとき、私は体調が悪くてあまり食べられなかったんで、早目に切り上げて部屋に戻っていたんです。ホリさんも朝はあまり食べない方なんで2人だけで話す時間があったんですよ。そのとき『どうしてるんだ』と訊かれたんで、『実は肝臓にがんが出来て、移植手術をしないと半年、1年の命です。だけど肝移植をするには、家族の誰かから肝臓を分けてもらわなければならず、元気な人を傷つけることになる。また、自分の場合は健康保険の適応にならないので莫大なお金がかかるんです。だから、それをやっていいものかどうか、決めかねていて……』と言うと、ホリさんがまじまじと私の顔を見て、一呼吸おいてから『命にはかえられないぞ。死んじゃったらおしまいだよ。俺もできるだけのことはするから』って言ってくれた。

それでモヤモヤが吹っ切れたんです。生体肝移植のことを家族以外の人間には話すのはホリさんが初めてだったんですが、うまく話せなかったのに、自分のつらさや迷いをすぐにわかってくれ、自分の目を見て真剣にそう言ってくれたんです。ホリさんの想いが伝わってきて、嬉しかったですね」

12月は店が忙しいため、横山さんが生体肝移植に向けて動き出したのは2004年になってからのことだ。

年明け早々、まず、横山さんは虎ノ門病院に1週間入院して肝動脈塞栓療法による抗がん剤の投与を受けた。これは、生体肝移植の手術を受けるとしても2、3カ月先になるので、それまでがんの進行を抑えておく必要があるからだ。

それが終わって退院したあと、横山さんは敦子夫人、長男、長女と4人で京都に出掛けることになった。

1月29日、京大病院を尋ねた4人はまず京大病院院長(当時)で移植外科教授の田中紘一さんから具体的な説明を受けた。田中さんは肝臓の図を書いてわかりやすく説明したうえで、ドナーが過去に1例死亡している事実を伝えてドナーにとっても危険性を孕んだ手術が行なわれることをはっきりした口調で述べた。

一通り説明を終えたあと、『何かご質問や、ご不明な点はありませんか?』と言って横山さんに目を向けた。横山さんは一瞬言葉に詰まったあと、まことに横山さんらしい質問を発している。

「先生、この手術受けて、またノックバット持って、ノッカーをやれるようになりますか?」

田中さんはその意味をよく理解し、的確な答えを投げ返してくれた。

「そのとき田中先生が『ええ、手術がうまくいって、気をつける��とさえ気をつけていれば、大丈夫です』と言って下さったんで、この先生にお任せしようと思いましたね。なぜ、ノックバットという言葉が真っ先に出たのか、自分でもよくわからないんです。自分としては、普通の生活ができるようになるのかどうか確かめたかったんだけど、言葉が浮かばなかったんですよ」

横山さんはそう言って照れ笑いを浮かべるが、人生の大事な局面で無意識のうちに出たノックバットという言葉は、横山さんの人生をいろんな意味で集約していることばなのだろう。

19時間にも及んだ大手術

写真:生体肝移植を受けた際のカルテ
生体肝移植を受けた際のカルテ

田中さんの説明を受けたあと、ドナー候補の奥さん、長男、長女の3人と横山さんは別々に検査を受けたあと、一緒に帰途についた。

3人のうちどう見てもドナーに指名されそうなのは21歳の長男だった。父親譲りのがっちりした体型で身長も180センチ以上あった。これといった病歴もないため、本人も自分以外にないと思っているようで、京大病院から京都駅に向かうタクシーの中でも『先生、俺のほうばっかり見てたよなー』と冗談めかした口調で話していた。

しかし、そうはならなかった。タクシーがもうじき京都駅に着こうというとき、奥さんの敦子さんの携帯電話が鳴った。

電話を掛けてきたのは京大病院の移植コーディネーターで、大事な話があるのですぐ京大病院に引き返して欲しいという。

言われるままに、Uターンして京大病院に戻った4人は、思わぬ提案を受けた。

「2月4日に手術を受ける予定だった患者さんが手術を受けられなくなって、その日に移植手術を受ける気があれば、すぐ手配すると言うんです。問題はドナーなんだけど、有力候補だった長男は脂肪肝で不適当だというんですよ。それを聞いたとたん家内が『私でお願いします』と言ったんです。最初から子供たちより自分をドナーにしてほしいと伝えてあったらしいんです。これから脂肪肝を治すといっても1、2カ月かかるので、とても待っていられないわけです。娘は20歳になったばかりでしたから、私も家内も、初めから体に傷をつけるようなことはできないという気持ちでした」

こうして敦子さんがドナーになることに決まり、4人はその日のうちに東京に帰った。しかし問題がすべて片付いたわけではなかった。

翌日、京大病院の田中さんから店に電話が入り、奥さんの肝臓を許容量ギリギリまで切り取っても、それだけでは必要な分量に届きそうもないので、娘さんの肝臓も使わせてもらえないかというのだ。人の肝臓は体の大きさに比例するので、横山さんの肝臓と敦子さんの肝臓は大きさがかなり違う。そこで不足する分を娘さんから、というわけだが、これは横山さんにとって絶対受け入れられない話だった。

横山さんが断固拒否すると、今度は敦子さんを説得にかかった。かなり難度の高い手術で、しかも失敗は許されないため、病院側も必死なのだ。しかし、敦子さんは子を思う横山さんの心情を切々と訴え、「私の肝臓なら取れるだけ取ってもらって構わないからやって下さい」と懇願した。

「結局、家内の気持ちが伝わったのか、向こうも諦めて、検査をした上で使えるようならば家内の肝臓を使うと言うことになった。もう時間がなかったんで、家内は次の日の朝、新幹線の始発に飛び乗って京都に行き、京大病院で夜まで検査を受けていました。精神的にも、肉体的にもかなりきつかったと思うんだけど、そんな素振りは全然見せませんでしたね。肝臓の3分の2を切り取られるんだから、当然心の中では大きな不安があったとは思うんだけど……」

横山さんがそう言って奥さんに対する言葉を口にしかけたとき、店の奥で仕事をしていた奥さんがやって来て、『肝臓って、意外と早くに元に戻るんですよ。とくに私の場合、回復が早くて2週間でほぼ元の大きさに回復してるっていわれましたから』と笑みを浮かべながら言った。

この奥さんの自己犠牲が実を結んで19時間に及ぶ難手術は翌2月5日の未明に終了した。

絶望のどん底から懸命のリハビリで這い上がる

写真:横山さん

しかし、これで全てが終わったわけではなかった。

手術後、横山さんは後遺症に苦しめられることになる。まず直面したのが足の末梢神経障害だった。手術後麻酔が切れると、からだ中に感覚が戻ってきたが、足だけはいつまでたっても麻酔がかかった状態が続いた。不安に思って看護師の助けを借りて立ってみたが、立つことは出来ても、足首から先が無感覚でつま先がだらんと下を向いた状態で、歩くことが難しかった。

「足の神経が麻痺する合併症があると知ったときはショックで、もう一生歩けないんじゃないかと思いました。担当の先生は1年くらいリハビリすれば歩けるようになると言ってましたが、湯船に入ろうとしても2、3歩進むのもままならずに転んでしまうような状態でしたから、とても、信じられなかったですよ。落ち込みましたね」

横山さんが絶望的な気分になるのも無理はない。歩けなければ店の仕事をこれまでのようにこなすことはできないし、ノックバット片手に少年たちに野球を教えることもできない。野球とうどんに自らのアイデンティティを見出している横山さんにとって働き盛りの年齢で歩けなくなることは、生きる意味を奪われるのと同じことだった。

そんなどん底状態にあった横山さんの気持ちを前に進ませてくれたのは、またしても、堀内恒夫さんだった。宮崎キャンプの宿舎にいる堀内さんに電話を入れるとすぐにつながった。

生体肝移植が無事に終わったことを報告したあと、横山さんは兄貴分の堀内さんに足のことも話した。

「そしたら、ホリさんが『ヨコ、生きてるだけでよかったじゃないか。生きてれば何だってできるんだ』って言ってくれて、励ましてくれたんです。監督就任1年目でスケジュールがびっしり入っているとき、私の話にじっくり耳を傾けてくれただけでなく、心に染みる言葉までかけてもらって頭が下がる思いです」

写真:手打うどん「立山

手打うどん「立山」
豊島区西池袋3-29-3梅本ビル1F
03-3985-7007
営業時間11:30~22:00日曜定休

堀内さんの心に響く言葉で気持ちが前に向くようになった横山さんは、その後、リハビリに寸暇を惜しんで取組むようになり、少しずつ足の感覚も取り戻し、今では普通に歩けるようになり、体調も良好だという。

それと同様に、物言わぬがん患者から考えるがん患者への変身もほぼ完了しつつある。

昨年9月、胆管のトラブルで京大病院に再入院した際は、内視鏡で塞がっている穴を探す際、何度やっても内視鏡が胆管に入っていかないのは、胆管の中に先に入れたステントにあたっているからではないかと、患者の実感からくる推論を医師に伝え、わが身を大いに助けている。

このように、横山さんはがん患者として着実に進化している。基礎体力、忍耐力は余人の及ぶところではないので、生体肝移植を受けた肝がん患者の生存記録を作るような偉大な患者になるような予感がする。

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