自らのレスラー生命を救った一瞬の決断 後腹膜腫瘍を克服したプロレスラー・西村修

取材・文:吉田健城
発行:2005年3月
更新:2013年8月

どうしてもプロレスを続けたい

翌週の月曜日、西村は母親と2人で慶応病院に出向き、前回と同じメガネの先生から検査の結果を聞いた。

「がんが発見されました」

と、その先生はハッキリした口調で言った。「手術しないといけません。そのうえで、化学療法の適応になります。そうなると……、まあ、進路の変更を考えていただくことになるかも知れませんね」

「はぁ……」

西村はそれ以上声が出なかった。がんを告知されることは覚悟していたが、抗がん剤をやることがプロレスをやめることを意味するとは、思ってもみなかった。にわかには受け入れられる話ではない。西村は手術とそのあとの抗がん剤治療については「考えさせてください」と言って、慶応病院をあとにした。

そのあと、2人で近くにある明治祈念館までゆっくり歩いて、なかにある日本庭園の見える喫茶店でお茶を飲んだ。

「母はがんについて、けっこう知識を持っているんですよ。父が初期の膀胱がんと末期の肝硬変だったもんですから。祖父も肺がんでしたからね。だから、息子ががんと分かって、ショックなんてもんじゃなかったようです」

それでも、少し気を取り直したお母さんは、つとめて明るい声で、息子に声を掛けた。

写真:インド・ベナレスの街中で

インド・ベナレスはパワフルで迫力に満ちた街だ。子どもたちはたくましく、キラキラと目を輝かせている。西村はこの地に滞在し、生と死を深く考えたと言う

写真:ガンジス川で沐浴し、祈りを捧げた

ベナレスはヒンドゥ教の聖地といわれ、街の東を聖なる川ガンジス川が流れている。西村もこの川で沐浴し、祈りを捧げた

「プロレスはもういいじゃない。マッサージの先生なんかどうかな。今までやって来たことを生かせるんじゃない」

母の気遣いを西村は大変ありがたく思ったが、西村はそれを聞き流した。ずっとプロレスラーとして生きることだけを前提に人生設計をしてきた西村にとって、プロレス抜きの生活など想像がつかなかった。

このとき西村の頭にあったのは、がんを治し、かつ、プロレスを続けるにはどうすればいいかということだけだった。

この息子の気持ちを知った母は、知り合いの麻酔科の先生を通して癌研究会付属病院で診��を受けられるよう、セッティングしてくれた。早く答えを出してもらうには慶応病院のデータが必要だが、慶応病院は快くデータを提供してくれたのですぐに診断が出た。

癌研病院の診断は手術だけやって、あとは様子をみることも可能、というものだった。

これならリングに復帰できる可能性も開けると思った西村は、すぐ癌研病院に入院することに決め、手術を受けることになった。

「がんの病巣はリンパ節にあったんですが、その周辺にも広がっていて、そちらのほうも切除したんです。手術のときは、腫瘍だけじゃなく周辺まで大きく切除しますから、やはりからだにはかなり大きなダメージがありましたね」

放射線治療を拒否し世界1人旅へ

写真:ガンジス川で沐浴
写真:1年8カ月ぶりに試合に復帰

1年8カ月ぶりに試合に復帰し、その後も欠場前から唱えていた「無我」の精神で闘い続けている

手術は上手くいった。しかし、主治医はLDH(腫瘍マーカー)の値があまりよくないことを気にしていて、どこかに転移しているのではないかと疑っていた。そのため、手術後も、毎日のようにいろいろな検査があった。

それで何も発見出来ないので、主治医は放射線治療を受けることを勧めた。しかし、西村はそれを拒否した。理由はハッキリしていた。放射線治療を受けるとがん細胞も死ぬが骨髄にある造血機能も修復不能な大きなダメージを受けるからだ。

「主治医の先生に聞いたら放射線治療で造血細胞の20~100パーセントが破壊されると言うんです。それだと、からだがガタガタになっちゃうじゃないですか。主治医の先生は、ほかの患者さんは、やりたがるんですよと、とおっしゃっていましたけど、僕の目標は再びリングにあがることでしたから、結局退院して、経過を見ようということになったんです」

西村は、それから少しの間実家で静養した後、ニュヨークに向け旅立った。自分のコンドミニアムがあるフロリダ州タンパではなくあえてニューヨークに向かったのは、1人で旅をするのが目的だった。

そこから、西村のリング復帰に向けての闘いが始まるのだ。

西村はニューヨークに入ったあと、ドイツのブレーメンに向かい、彼女と再会したあと、ウィーンやシチリアなどを気の向くままに旅をした。

見知らぬ土地を1人で旅すると常に緊張を強いられる。それによって、免疫力が高められるため、人は旅に出ると病気をしなくなるものだ。プロレス武者修行をした経験のある西村は、そのことをよく知っていた。

それによって鋭気を養ったあと、西村はオーランドに戻って復帰に向けたトレーニングを開始した。その過程で、人工物を一切排除した食事がどれだけ質の高い筋肉を作り上げるかということを知った西村は、自然のサイクルの中で生きることの価値に目覚め、インド哲学に傾倒するようになった。それはヒンドゥーの聖地、ベナレスヘの旅に発展していく。

「インドの人々のすごいところは、死を恐れないことです。彼らは、死ぬことが怖くない」

インド哲学が好きで菜食主義者のプロレスラーなど、一昔前は考えられないキャラクターだったが、これもがんと闘った産物なのだ。それを考えれば、がんは彼にとってそれほど悪いものではなかったのかもしれない。


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