がんと戦う「心の薬」がたくさんあったしあわせ 乳がんで夫婦の絆を深めたタレント・泉アキさん

取材・文:吉田健城
発行:2004年10月
更新:2018年9月

紺碧の海を一望できる病室

写真:家族と一緒に、大好きな海でダイビング
家族と一緒に、大好きな海でダイビング

もう1つ有り難かったのは、病室から紺碧の海を一望できることだった。

これは海が大好きなアキさんにとって、この上ない癒しになった。

「私って本当に海が好きなんですよ。以前はひまを見つけては旦那(夫の菊丸さん)や友人たちとスキューバダイビングに出かけていたほどですから。だから、私、病室から沖に浮かんでいる小船を見ただけで、目がそこに釘付けになってしまうんです。小船の縁に海女さんがつかまっていようものなら、サザエやアワビがどれだけ獲れたか気になっちゃって見入ってしまうんです。その間は自分ががんで入院していることなど、完全に意識から消えているんで、海が目の前に広がっていることは最高の薬でしたね」

しかし、紺碧の海以上にアキさんの心を癒してくれたものは、夫菊丸さんと、心配してくれる多くの友人たちの存在だった。

左のオッパイにしこりを見つけたあと、アキさんは菊丸さんに乳がんのようだと伝えた。それを聞いた菊丸さんはショックで呆然となり、「なあ、アキは温泉が好きだから、これからは日本中の温泉めぐりをしよう。この家を売っても構わないから世界中を旅しようよ」と言ってくれた。

写真:マウイマラソンで8時間39分で堂々のゴール

手術後4カ月で出場したマウイマラソン。菊丸さんと手をつなぎ、8時間39分で堂々のゴール

また、友人たちはアキさんのがんを知ると次々に励ましの電話をかけてよこし、近くに住んでいる人は足繁くお見舞いに来て病室の空気を明るくしてくれた。

重い病気の中でも、がんほど精神的な苦痛に苛まれる病気はない。誰だって検査の結果が出るまでは、死ぬかもしれないという不安で一杯になる。そんな状況に置かれた人間にとって、最高の薬は、心をプラスの状態にしてくれるものだ。

それが無いと、がんにかかった人間は、死にたくない、死にたくないという不安心理ばかりが増して、精神的ストレスに押しつぶされてしまう。こうなると免疫力も低下し、病状と心理状態が相乗的にマイナススパイラルの泥沼にはまり込んでしまう。

それを防ぐには、心の薬になるものが必要になるのだが、アキさんにはそれがたくさんあった。その幸せを彼女は、自分がほかの患者の心の薬になることで還元している。

マイナスをプラスに変えた励まし

写真:日記をつける

乳がんを発見してから、退��するまでを記した日記アキさんはこれを「がんばるノート」と名づけた

写真:リハビリ

手術後すぐに始まったリハビリ。持ち前のプラス思考で乗り切った

手術あとの痛みやリハビリの辛さにもめげず、アキさんは患者仲間に声をかけ、空気を明るくするよう心掛けた。それだけでなく、時には、がんを告知されてひどく落ちこんでいる患者の愚痴の聞き役、励まし役を買って出ることさえあった。

とくにアキさんの印象に残っているのがMさんという、同じ乳がんで入院している患者だった。

Mさんは、がんと精神の落ちこみが相俟ってマイナススパイラルに落ちこんでいる患者の典型で、心配した旦那さんがアキさんに元気付けて欲しいと頼みに来たのだ。

「はじめは聞き役に徹して、Mさんに言いたいことを全部言ってもらったんですよ。そしたら、死にたくない、死にたくないと強調するんで、どうしてと訊いたら、自分はこれまでの人生でいいことが全然なかったって言うんですよ。旦那さんは仕事人間で自分は置いてきぼりにされたし、息子も家に寄り付かなくなり、姑ともしっくりいかず、どうしようもない、と。これまで、主婦として家事もしっかり切り盛りして来たつもりだけど、誰かに感謝されていると感じられることもなかった。そんなまったくいいことが無い状態で、がんにかかって死ぬんじゃ、死んでも死にきれない、と言うのが、そのときの彼女の気持ちだったんです。そのあと、いろいろ思いつくままに、彼女に言ったんだけど、私がとくに伝えたかったのは、がんにかかったことは、逆に自分にいいことがおきるチャンスかも知れないということでした。Mさんにこう言ったんですよ。私は、がんにかかってはじめて見えて来たことがたくさんある。とくに、旦那がこんなに自分のことを思ってくれる大事な存在だと気付いたことは、自分にとって最高に幸せなことだった。あなたは、旦那さんが仕事にかまけて構ってくれないって言ってたけど、あなたにだって、あなたのことを心配して私に励ましてやって欲しいと言いに来るいい旦那さんがいるじゃない。これも、がんになったからでしょ? 今なら、退院したあと、たとえば家のカーテンから何からガラッと変えて、家を自分の好きなように作りかえるような思い切ったことだってできるじゃない。がんは不幸なことではあるけど、逆に自分と、自分のまわりを好きなように変えられるチャンスでもあるのよ、って話したんですよ。2時間話したか4時間話したか忘れたけど、とにかく思いつくままに喋っていたら、彼女、凄く明るい顔になって、旦那さんの待つ病室に帰っていったんです。手術のときは、手術室に向かう彼女の手を、家に寄り付かないと言っていた息子がずっと握り締めていたんで、彼女、がんになるのも悪いことばかりじゃない、と実感したんじゃないかしら(笑)」

このように患者仲間を励ますことに生きがいを感じながら、58日間の入院生活は終了した。

免疫力を高める畑

写真:畑仕事
写真:畑仕事

大切な人と共に、命を育んでいく喜び。畑仕事は最高の心の薬だ

この入院生活は、時間からすれば人生の何百分の1でしかない。しかし、アキさん、菊丸さん夫妻にとっては、夫婦の絆を深め、生きることの値打ちを認識する重要なターニングポイントになったようだ。

現在、アキさん夫妻は、熱海病院からそれほど遠くない所にセカンドハウスを自分たちで作りながら土地を開墾し、菜園を作って野菜作りに夢中になっている。

ここで、春に植えたトマトは、海の方から燦々と注ぐ太陽のエネルギーに育まれて夏に真っ赤な実をつけ、夏に植えたヤーコンの苗は秋になると、土の中に驚くほど大きないもを蓄える。そして、秋に植えた、イチゴの苗は冬の寒さに耐えて春にはたわわに実をつける。

ここで自然の摂理の中で作った野菜は、スーパーのパック野菜とは比べ物にならないくらい栄養価が高い。もちろんアキさんが手製の堆肥で育てた野菜に発がん物質のリスクなどあるはずも無い。

しかし、それ以上に価値があるのは、精神をリラックスさせ、免疫力を高める効果だ。好きな野菜作りに夢中になっているとき、人はワクワクしながら、クワをふるうものだ。収穫のときも、いいものが獲れれば素直に嬉しいし、できそこないが獲れたら獲れたで、笑いのネタになる。アキさんの場合は、それを最愛の旦那さんと、しかも、海を一望できる畑で楽しんでいるのだ。これほどいい心の薬の中に身を置いていれば、がん細胞も出る余地がないのだろう。

手術から5年、アキさんは今すこぶる健康だ。

写真:家庭菜園で
現在は、老後の自給自足の田舎暮らしを目指して奮闘中。
家庭菜園では様々な種類の野菜作りに挑戦している


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