がんになり、しなやかに生きる術を身につけた 骨髄異形成症候群を克服したプロゴルファー・中溝裕子
心に響いた阿武松親方の言葉
しかし、状況はさらに悪くなっていた。
血小板の減少によって、ちょっとした傷でおびただしい出血があるうえ、体のあちこちで内出血がおき、それが大きな痣になった。しばらくすると、力を入れて拳を作っただけで手の甲に赤い斑点ができるようになった。こうなると、ゴルフクラブを握れなくなる。
溝口医師からは、再三骨髄移植を受けるように言われていたが、それでも中溝は踏ん切りがつかなかった。
「迷っている私の背中を押してくださったのは、阿武松親方(元関脇・益荒雄)でした。私が阿武松部屋に遊びに行くことになったのは、親方の奥さん、つまり部屋のおかみさんが奥村久子プロだからです。私たちが訪ねていくと、親方は私のことを奥さんから聞いていたようで、力強い口調で私に骨髄移植をすすめました。来たら話してやろうと思っていたのだと思います。親方は現役時代、怪我に泣いて苦しい経験を何度もしているので、他人事とは思えなかったんでしょう。『中溝君、骨髄移植を受けたほうがいいと思うよ。医学は日進月歩で進んでいるんだ。医学を信じろよ。ゴルフやりたいんだろ。命かけてきたゴルフなんだろ。やりたかったらちゃんと治してからでも遅くないぞ。絶対治るよ。俺が保証してやる。中溝君なら大丈夫だよ。日本一の病院だろ。日本一の先生なんだろ。神様は頑張ってきた君を見てるよ。これからももっと力を与えてくれるよ』――阿武松親方の言葉は私の心にスーッと染み込んできました。私が、骨髄移植を受けると決めたのはこのときです」
筆者はその場にいたわけではないが熱心な相撲ファンなので、阿武松親方の言葉に中溝が心を動かされたことが理解できる。

移植前、両親と。
必ず成功してもう一度グリーンに立つと誓った
益荒雄は110キロ台の軽量ながら相撲巧者で知られ、一時は大関候補の筆頭に上げられていたこともあったが、軽量ながら豪快な取り口の四つ相撲ということもあって何度も大きなケガにみまわれた。
大きなケガの場合、本来なら2場所か3場所休場して治したいところだが、益荒雄は違った。大相撲では休場が続くと、地位がどんどん下がるので、益荒雄はとても相撲をとれる体ではないのに、痛めた箇所を大きな包帯やバンデージで固定して土俵に上がっていた。
とくに、骨折による連続休場で西の十両13枚目まで落ちたとき、患部を特大サイズのバンデージで固定して土俵に上がったときの痛々しい姿は筆者の脳裏に焼き付いている。そうやってケガを押して土俵にあがったため人気力士のわりに益荒雄の力士生命は短かった。それだけに、回り道をしてでも、ケガや病気はしっかり治しておくべきだということは、身に���みてわかっていたのだろう。
移植は全身麻酔で5時間
中溝はこの親方の言葉で移植を受ける決心をした。そして、妹の千佳与にドナーになってもらい、平成9年の12月に東京女子医大病院で骨髄移植を受けることになった。
骨髄移植はあまたある治療法の中でも、もっとも事前の準備が大変な治療法の1つだ。
まず移植前に患者の骨髄の中の免疫機能をゼロにするため抗がん剤の大量投与や放射線照射が行われる。それによって白血球や血小板がゼロの状態になるため、患者は手術日の2週間くらい前から無菌室での生活を余儀なくされる。無菌室に入るときはウイルスや細菌を絶対に持ちこんではいけないので、髪の毛、眉毛から体毛、うぶ毛までからだのありとあらゆる毛を剃ってしまう。
食事も無菌食になるので、美味しくない。
骨髄移植は予定通り12月3日に行われ、5時間近くかかったものの、無事終った。
しかし、これで中溝裕子と「がん」のマッチプレーにケリがついたわけではない。移植後、退院間近になって恐れていたGVHD(移植片対宿主病Graft Versus Host Disease)が出てしまったのだ。
これは、中溝のように親兄弟から骨髄を移植する「同種骨髄移植」につきものの合併症で、HLA(白血球抗原)の型が同じでもリンパの型が違う場合に起きる。それによって、中溝は、さらに数ホール、がんと闘う羽目になるのだ。しかも、この闘いは強い逆風と、土砂降りの雨の中でやっているよう厳しいサバイバルマッチだった。
点滴だけで生きた1年8カ月

移植後は抗がん剤の副作用に苦しんだものの、白血球や血小板も戻り、2月には外出許可が下りるまでになった。
そして3月中旬、退院予定日まで1週間を切ったところで、外泊が許された。中溝はお母さんと一緒に台湾料理の店に出かけた。しかし、食べ物が口の粘膜に染みて、痛くて食べられなかった。
検査の結果GVHDと診断され中溝は目に前が真っ暗になった。もしGVHDだとすれば、さらに2~3年入院しなければならないと聞いていたからだ。しかも、彼女の場合、患部が口の中と食道だったので、食道が狭くなってしまい、食べ物を飲みこめなくなっていた。
そのため、中溝は点滴による栄養補給のみで生きていかなければならなくなった。
食事のない生活―食事は単なる栄養摂取手段ではなく人間の最大の楽しみだ。それを奪われた中溝のショックの大きさは想像にかたくない。
終着駅の1つ手前まできたのに、見えていた終着駅がどんどん先にいってしまうとき、人は絶望し、生きる意欲をなくすものだ。
この最低の状態を中溝は最高の方法で乗り切った。

1つは笑いだ。それも、自分を笑いのネタにしたのだから恐れ入る。写真を見ていただければわかるとおり.このどうしようもない状態になったとき.中溝はまわりの人たちに明るく話しかけ、ギャグを連発して笑わせた。知らない人が見たら、万木城カントリークラブ所属のプロゴルファーではなく吉本興業のお笑い芸人かと思ったことだろう。
逆境の中を生き抜いたユダヤ民族の格言には絶望的状況をどう生きるかを暗示する格言がいくつもある。
「神の前で泣き、人の前で笑え」
「腹が減ったら歌え、傷ついたら笑え」
「自分を笑えるものは他人に笑われない」
「喜びの1日は悲しみの2日に勝る」
「ユダヤ人は片足を折れば両足でなくて良かったと神に感謝し、両足を折れば首の骨でなくて良かったと神に感謝する」
ユダヤ人はこうした素朴な言葉で自分たちが逆境で身につけた生きる知恵を格言という形で語り継いできた。その中でも、ここにあげた5つの格言はこのときの中溝の生き方とピッタリ合致しているように思える。
もう1つ、笑いとともに彼女が絶望的状況で行ったことがある。それは、筆絵と筆文字だ。これは叔母の手ほどきではじめた趣味で、もともと筋がよかったのか、すぐに上達した。
入院中彼女はこれをせっせと書いては、病棟の患者さんや看護師さんたちにプレゼントし、感謝されていた。
中溝の筆絵は棟方志功を思わせる骨太な温かさに充ちており、余計な装飾がない。横に添えられたメッセージにも不思議な力強さがあり、病室に飾っておくのに最適の絵となっている。
葦のようにしなやかに

彼女がもしゴルフしか知らずに生きてきたらこの絵は生まれなかったろう。「葦のようにいつもしなやかであれ。杉のように頑なではいけない」というユダヤ格言があるが、ゴルフがすべてだったころの中溝は「杉」だった。向かい風が強くなればなるほど足を踏ん張って倒れまいとした。
しかし、がん患者となってからは「葦」になる術を身につけた。葦はどんな逆風になってもしなやかさを失わない。中溝もどんなに逆風が吹いても、やわらかな思考ができる人間になった。それがなければ、心温まる筆絵は生まれなかったろう。そう考えると、筆絵は中溝の生きざまを見続けていた神様が、最後にご褒美にくれた宝物なのかもしれない。(本文・敬称略)
同じカテゴリーの最新記事
- 人生、悩み過ぎるには短すぎてもったいない 〝違いがわかる男〟宮本亞門が前立腺がんになって
- がん患者や家族に「マギーズ東京」のような施設を神奈川・藤沢に 乳がん発覚の恩人は健康バラエティTV番組 歌手・麻倉未希さん
- がん告知や余命を伝える運動をやってきたが、余命告知にいまは反対です がん教育の先頭に立ってきたがん専門医が膀胱がんになったとき 東京大学医学部附属病院放射線治療部門長・中川恵一さん
- 誰の命でもない自分の命だから、納得いく治療を受けたい 私はこうして中咽頭がんステージⅣから生還した 俳優・村野武範さん
- 死からの生還に感謝感謝の毎日です。 オプジーボと樹状細胞ワクチン併用で前立腺PSA値が劇的に下がる・富田秀夫さん(元・宮城リコー/山形リコー社長)
- がんと闘っていくには何かアクションを起こすこと 35歳で胆管がんステージⅣ、5年生存率3%の現実を突きつけられた男の逆転の発想・西口洋平さん
- 治療する側とされる側の懸け橋の役割を果たしたい 下行結腸がんⅢA期、上部直腸、肝転移を乗り越え走るオストメイト口腔外科医・山本悦秀さん
- 胃がんになったことで世界にチャレンジしたいと思うようになった 妻からのプレゼントでスキルス性胃がんが発見されたプロダーツプレイヤー・山田勇樹さん
- 大腸がんを患って、酒と恋愛を止めました 多彩な才能の持ち主の異色漫画家・内田春菊さんが大腸がんで人工肛門(ストーマ)になってわかったこと