白血病を乗り越えて現役復帰!「マウンド度胸」の男・岩下修一投手の1220日

取材・文:吉田健城
撮影:谷本潤一
発行:2004年7月
更新:2013年8月

再び一軍のマウンドに上ることを目標に

岩下が治療をしている間、チームメートは岩下の背番号「26」をそれぞれの帽子に書き込み、無言のエールを送ってくれた。ファンからの激励の手紙、家族の支え、それらのすべてが病気に立ち向かう力となった

(写真:産経新聞ビジュアルサービス室)

このような精神的に不安定な時期に最良の薬になったのは、毎日お見舞いに来てくれる一粒種、智春ちゃんの存在だった。日増しに可愛くなっていく生後7カ月の子供を見るたびに、岩下は自分が1人でないことを実感し、智春ちゃんが物ごころつくまで何がなんでもがんばり続けてパパが一軍のマウンドで投げているところを見せてやりたいと思った。

もう一つ、岩下に勇気を与えてくれたのは、球団が全面的な支援を約束し、契約更改する方針であることを表明してくれたことだ。野球選手は、いくら本人が現役復帰に意欲を見せても、球団が契約を更新してくれなければ、無駄な努力に終ってしまう。岩下が、入院当初から気にしていたのも、このことだった。
球団が契約してくれると知った岩下は再び一軍のマウンドに立つという目標が見えてきたため、入院2カ月目、3カ月目の苦しい時期を乗り切ると、復帰に向けた努力を開始する。

一番気になっていたのは脚の衰えだ。コーナーを突くコントロールも時速130キロ台の真っ直ぐも、強靭な下半身があってはじめて生まれるものだ。それだけに、岩下は少しでもいいから下半身の強化になる運動をしておきたかった。しかし、抗がん剤を投与している間は身動きが取れない。それでも、何か下半身の強化につながることをやりたい岩下は、点滴吊りのワゴンを押しながら毎日1時間ほど病院内を歩きまわった。
その一方で、栄養補給にも気を配るようになり、退院時には、体重が10キロ近くも増えていた。

基礎体力づくりから練習をスタート

岩下は、退院後じっくり家に腰を落ち着ける間もなく、体力作りをスタートさせた。球団からは「焦らないでじっくりやってください」(矢野球団本部長)と言われていた。しかし、プロの選手である以上早く結果を出さないと生きていけないことを知り抜いている岩下は、とても家で体を休めている気にはなれなかった。

「あのときは、多くの方たちから『あまり無理することはない』『焦りは禁物。一歩一歩いけばいい』と優しい声をかけてもらったんですが、プロの世界ってそんなもんじゃないですからねえ。ぼくのように、これといった実績のない人間が、本気で無理せずじっくりやったら、他の人間に取って代わられるだけだし、チームメートだって自分に優しい声は掛けてくれる友人ではある反面、一軍定着レースで熾烈な競争を繰り広げるライバルでもあるわけです。だから一日も早くチームメートと同じメニューをこなせる体力を取り戻したいと思って���ました」
最初のステップは基礎体力作りだった。

はじめはブルーウェーブの室内練習場の周りを1時間くらいかけて歩いたり、合宿所で20分間エアロバイクをこぐといった程度だったが、徐々に練習内容をレベルアップしていくと、体力もそれにつれて急速にアップし、退院の1カ月後には軽いキャッチボールができるようになった。
このときはチームメートの徳元を相手に塁間距離(約27メートル)を5分間投げただけだったが、半年ぶりにボールを握る手に違和感はまったくなかった。

退院から4カ月で一軍の開幕メンバーに

「病気を治した岩下で有名ですが、実はこう言われることを気持ちよく思っていません。プロの世界に戻ったら、オリックスの好リリーフ投手岩下と言われるのが一番うれしい」

正月を静岡の両親のもとで過ごした岩下は、ここでも連日トレーニングに励み、神戸に戻ったあとは室内練習場でスタートした自主トレに参加した。
キャンプインが間近に迫ったこの時期になると、トレーニングの内容も結構ハードになってくる。
10分走って5分歩くことを繰り返すサーキットをメインに、筋トレとキャッチボールをくみ入れた3時間に及ぶトレーニングを岩下は黙々とこなし、チームメートにも、マスコミにも、体力が急速に回復していることをアピールした。

そのあとはいよいよ春のキャンプだ。宮古島でのキャンプで大いに投げこんだ岩下はボールの威力が日増しにアップし、実戦で投げることができるレベルに回復したと判断された。
最初に実戦で投げたのは3月10日に行われた教育リーグの対近鉄戦だった。これで好結果を出したため、20日に行われた教育リーグの対中日戦にも起用され、ここでも好投した岩下は、オープン戦とはいえ、一軍に引き上げられることになった。

もちろん、そのまま一軍に留まって一軍の開幕メンバーにはいるには、実戦で試され、それをクリアしなくてはいけない。岩下が起用されたのは3月23日の対中日戦だった。この試合で、3番手で登板した岩下は中日の主軸である立浪、谷繁、山崎をピシャリと押えて開幕一軍の切符を手にした。岩下が一軍の開幕メンバーに加えられたのは、開幕3連戦で当たる近鉄を意識してのもので、石毛監督(当時)は岩下を、ローズをはじめとする左の強打者封じの切り札とし使う腹積もりだった。

こうして迎えた開幕戦で岩下は三番手としてマウンドにあがり、いきなりウィルソンに一発を浴びたものの、それ以降は持ち前の緩急をうまく使ったピッチングが冴え、1回3分の1を1失点で切りぬけてお役ご免となった。
ようやく一軍のマウンドに立つことができた岩下だが、好調は長続きせず、それ以降打ち込まれることが多くなってあえなく二軍落ち。途中一軍に引き上げられたこともあったがまたすぐUターンしてしまった。

チームに必要とされる選手でありたい

翌2003年は一軍定着を目指して打たせて取るピッチングへの転換をはかり、それが一定の効果を収め防御率が大幅に改善された。とくにそれが効果をあげたシーズン終盤には1220日ぶりに勝利投手になって注目された。
しかし、ストレートの球威がないため少しでも甘く入ると痛打されることが多く、岩下は一軍定着を果たせなかった。
こうした状況は現在も変わっていない。岩下は今年の6月で31歳になることもあって、一軍定着を可能にする方向性を必死になって模索しながら投げ続けている。

「一軍定着にこだわるのは、一軍で投げないとお金にならないというのが一つ。もう一つは現役をこれから何年も続けるには、チームに必要とされる人間になる必要があるからです。以前は上の子供が物ごころつくまで投げ続けたいと思っていたんですが、一昨年の12月に2番目の娘が生まれてからは、この子がパパがマウンドで投げているんだと認識できるようになるまで現役を続けたいと思っています。それには何としてでも一軍に定着していかないといけないんです。チームに必要とされている人間は首になりませんからね。それを実現するのが白血病になったとき心の支えになってくれた家族への最高の恩返しだとも思うし」

これは、白血病にかかったからこそ持ち得たモチベーションと言っていい。このモチべーションがある限り、岩下はそう簡単に現役生活を終えることはないだろう。
岩下は目標とする選手として、大リーグで昨年まで活躍し、46歳で引退したリリーフ投手ジェシー・オロスコの名を挙げた。オロスコは左のサイドハンドからクセダマを繰り出す技巧派で、球はけっして速くないが、現役生活への執念とピンチに遅い球を大胆に使えるマウンド度胸で40代後半まで投げつづけた大投手だ。

レフティ・スペシャリストは主役でスポットライトを浴びる存在ではないが、経験と度胸がものをいう分、年齢が30歳になってから急によくなるケースが少なくない。こうしたタイプの投手は、大リーグにはたくさんいるが、日本ではまだ現れていない。その第1号になる可能性があるのが岩下だ。

岩下が日本のジェシー・オロスコになって40歳まで投げ続けたら、日本のがん患者たちはどれだけ励みになることだろう。
血液のがん(白血病)は投手・岩下修一に回り道をさせることになった。しかし、そのダメージをメリットに変える精神力が岩下にある。それが、今後の10年間で、大きな花を咲かせる可能性は大いにある。

(本文敬称略)


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