元日本ライト級チャンピオンの戦いのゴングは「あと2カ月の命」と宣告されたときに鳴った がんVSバトルホーク風間のエンドレスマッチ

取材・文:吉田健城
発行:2004年6月
更新:2013年8月

がんの広がりが判明し、手術は中止

手術を受けることになった風間さんは、その前に再度、精密検査を受けることになった。しかし、CTスキャン、MRI、内視鏡、血液検査などを順にこなし、あとは手術を受けるのみとなったところで、手術が中止になった。がんの浸潤が食道だけでなく、食道に隣接した大動脈まで広がっているのがわかったからだ。その結果、風間さんの治療は放射線照射と抗がん剤を併用しながら進めていくことが決まった。

こうして風間さんと食道がんの終りなき戦いがはじまった。

戦いといっても、リングの中央で、有利不利のない互角の条件で始まった試合ではない。下手に戦うと、あと2カ月で「永遠のKO負け」となることが決まっている、極端に挑戦者に不利な条件での試合だった。

1回目の入院は6週間に及んだ。放射線治療は1日1回土曜日曜を除く毎日あった。これが計30回。抗がん剤はアクプラ(一般名ネダプラチン)とタキソテール(一般名ドセタキセル)ないしは5-FU(一般名フルオロウラシル)を使った治療が行われることになった。

「手術ができないということで、これから放射線照射と抗がん剤で治療していくという話が医師からありました。そのとき、抗がん剤は何にしますか、選んで下さいって言うんですよ。はじめ、何でこんなことさせんだろうって思いましたよ。あと2カ月の命と宣告されたんだから、どんな薬だって同じだろうと思うじゃないですか。で、先生に、よくわかんないからお任せします、っていったらそれはダメだと。あとで知ったんだけど、医者は勝手に選んではいけない決まりになっているんですね。仕方がないんで、先生に一つひとつ副作用を聞いたりしながら抗がん剤を決めました。そのときは、あと2カ月と告知された前回のときよりは、気持ちが落ち着いていましたね。6週間の放射線治療がうまくいけば多少望みが出てくることが判ったからです」

この6週間の治療が成功すれば3年間生きていられる確率が15パーセントといわれていたので、風間さんはどんなに副作用があろうと、耐え抜くつもりで治療に臨んだ。そして、この6週間の入院を無事終了した風間さんは、体力が回復しているのを感じ、2カ月よりも長く生きられるだろうと思った。

夢を実現したい。だらしなく生きたくない

写真:試合

「死ぬのは怖くないと思えるのは、ボクシングをやっていたからだと思う。試合では常に緊張感を最大限にして死ぬ覚悟で闘っていたから」

相変わらず担当の医師からは1カ月単位で行動を考えるように言われていた。これは、1カ月の命は保証できるが、それ以上は保証できないということだ。しかし、体力が目に見えて回復していることを実感していた風間さんは、いまの体力なら限られた時間を利用して最後の夢を実現できるかも知れないと考えていた。その夢というのは北朝鮮を訪問することだ。

風間さんには政治的な動機などまったくない。北朝鮮に行ってみたいと思うのは、コリアンボクサーたちに大きな恩義を感じていたからだ。現役時代一匹狼で、しかも名うてのテクニシャンだった風間さんは日本国内でなかなかスパーリング・パートナーを見つけることができず、苦労した。

そんな風間さんを韓国のボクシングジムは温かく迎えてくれた。風間さんが世界ランカーに成り得たのも、レベルの高い韓国人ボクサー相手に壮絶なスパーリングをこなしてきたからだといっても過言ではない。それだけに、ソウルには数え切れないほど行っているのだから、1度はピョンヤンも見てみたいという気持ちが強かった。

この夢はまだ実現したわけではない。しかし、北朝鮮国籍の世界王者・徳山昌守の関係者が調整に動いていると聞くので実現の可能性は大いにある。

もう一つ風間さんが行ってみたいと思っていたのがイタリアだ。こちらのほうはすでに実現しており、昨年1月、風間さんは単身成田からイタリアに飛び、ミラノからコモ湖を経てスイスとの国境地帯まで、気ままな一人旅を楽しんでいる。

言葉が通じないのでスイス方面に行くのにどうすればいいか、何度も人に聞かなければならなかったが、機転の利く風間さんは、年配の人に尋ねるときはスイスの地図を紙に書いて示しながら尋ね、英語がわかりそうな高校生・大学生に尋ねるときは、英単語を幾つか並べて尋ねた。この旅で風間さんは異邦人としての自分を楽しみながら、イタリアを満喫した。

見えなかったものが見えてくる感動

写真:試合

「オレが生きている姿をがん患者さんに見てもらい、ちょっとでもその人たちの励みになれば、オレもうれしい。その人たちのためにもオレは頑張る」

末期がんの患者でありながら、風間さんは行動範囲を世界に広げていった。しかし、新たにチャレンジしたことはそれだけではない。風間さんがいま夢中になっているのが野菜作りだ。何か特別なものを育てているわけではない。作っているのはナス、きゅうり、トマトにほうれん草、小松菜といった定番作物ばかりだ。これらを自宅の小さなスペースで栽培しているのだが、毎朝観察していると、それまで気が付かなかったことが目に止まるようになり、毎日が発見の連続だという。

野菜だけでなく、生あるものに対し、人一倍敏感になった風間さんは、蝉が殻から抜け出るところを目撃し、感動で胸がいっぱいになったことがある。

「白っぽい色の殻が割れて中から透きとおるような白い蝉が現れたんです。それが、瞬く間に羽に紋様が浮かび上がり、さらに、それに色がついて、もとの姿とは似ても似つかないアブラゼミになっていく。誰がプログラムしたわけでもないのに、硬い殻を被って出てきた蝉に、完璧な紋様が施され、着色がなされていくわけですから、本当に感動しました。着色が終わったときは、蝉が光り輝いて見えましたよ。がんにならなければ心を動かされることはなかったと思いますね」

この話を聞いたとき、私は、以前テキサスとルイジアナの州境にある田舎町でジョージ・フォアマンに会ったときのことを思い出した。フォアマンはモハメド・アリに敗れたあと神の啓示を見てボクシングをやめ、南部の田舎町で牧師になった。風間さんも、たまたま目撃した蝉の脱皮から、この世には人間の力を超越した存在がいることを感じ取っている。二人に共通するのは、もともと繊細な感受性の持ち主だったのに、たまたまボクシングが強かったばかりに、それを長い間封印せざるを得なかったことだ。

フォアマンはその後、牧師の身分のままリングに復帰し、世界ヘビー級王者に返り咲いた。人を救うのが仕事の牧師がリングで相手をパンチで叩きこんで金を稼ぐことなど、あってはならないこと、という声もあったが、本人はまったく意に介さず戦い続けた。これは「自分の教会を建設するには金が必要。だから、リングで戦うことを神はお許し下さるだろう」という考え方からだっだ。

大胆で自由な精神にあふれている

風間さんも似たところがある。それは、がんを宣告され、治療のため入院しているのに、酒をやめようとしないことだ。堂々と病室の冷蔵庫に缶チューハイを何本も入れて「これを飲みながら抗がん剤を服用すると、薬がからだの隅々まで行く感じがするんです」と怪しげな効能まで語っている。

これも風間さんが、人ができないことをやってのける、世界一フットワークの軽いがん患者であることを考えれば、心のエネルギー源として必要なのかもしれない。

風間さんの発想は大胆で自由な精神にあふれている。まるで死への恐怖心などないように感じられるが、これもかれのボクサーとしての長いキャリアを見れば納得がいく。

この分だと北朝鮮訪問も実現するかもしれない。そのときは、ぜひ「4期の食道がん患者が書いた北朝鮮訪問記」を本誌に寄稿し、全国のがん患者と、その家族に勇気を与えていただきたいものだ。この人ならそれができる!

スポーツ記者・林直樹さんのコラム
バトルホークの闘病報告


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