脳腫瘍がくれた2つのビッグな勲章 奇跡のカムバックを遂げたプロ野球投手・盛田幸妃

取材・文:吉田健城
発行:2004年3月
更新:2018年9月

ナイター中継をいっさい見なくなった

写真:横浜南共済病院の桑名前脳神経外科部長と一緒に

退院の日、横浜南共済病院の桑名前脳神経外科部長(右から2人目)と一緒に

しかし、そのような状態が続いたのは2、3日で、手術から5日目には右手が多少動くようになり、自分で食事がとれるようになった。そして、手術から12日目には歩行訓練ができるまでになった。

それでも、盛田の頭の中には現役復帰という考えはまったくなかった。ただひたすら念じていたことは、普通の体で社会復帰したいということだけで、野球のことなどまったく頭になかった。

「ナイター中継をいっさい見なくなりましたね。その年は古巣のベイスターズが優勝したんですが、それを見ても、悔しいとも、うらやましいとも思わなかった。ただ、どうでもいいという感じでした。まだ復帰する気持ちがあれば、少しは悔しい気持ちにもなったでしょうが、そんな気持ちはまったくなかった」

横浜南共済病院での40日間に及んだ入院生活を終えた盛田は、10月20日に退院したあと、横浜市スポーツ医科学センターで、復帰を目指して本格的なリハビリを開始した。しかし、この時点になっても右の足首は神経が通わない状態が続き、上下に動かすことすらできなかった。

これでは、打つことも、守ることもできない。そのため盛田は現役復帰に関してだいぶ弱気になっていた。

足首のハンデが生んだサードゴロを築く投球術

写真:盛田さんの投球フォーム

ピッチャーは投げるときに砂煙が上がるほどプレート板を強く蹴る。だが盛田は右足に力が入らないため、柔道の背負い投げのように上半身の体のひねりでスピードを乗せるようにした

それが一転して、現役復帰に傾くようになったのは、脳腫瘍の後遺症で麻痺してしまった足首に補助装具をつければ、走れるだけでなく、ほとんどのプレーが可能になることがわかったからだ。この方式で、見事に復活したケースとしては、膝の靭帯断裂で選手生命を危ぶまれた巨人・吉村の例がよく知られていた。

盛田の場合はピッチャーなので、守備面で不都合が生じそうなのは、バント処理と一塁ベースカバー、投球面では、投げる際にプレート板を蹴ることができないので、球速が大幅に減少する恐れがあった。

このマイナス面を盛田はどのようにして克服したのだろう。

「まず1塁ベースカバーだけど、ベースカバーにピッチャーが走るのは、ファーストゴロか1、2塁間に球が転がったときだから、右バッターには、最初からシュートシュートでインコースを攻めて、サードゴロかショートゴロ、さもなくば、三振を取るつもりで投げていました。プレート板を蹴ることができないために生じる球速の減少は、ちょうど、柔道の一本背負いをやるときのように、上半身の体のひねりでスピードが乗るようにしました。そんな投げ方でも、いいときは140キロ以上出ていました。一番の弱点はバント処理なんだけど、僕がマウンドにいるときは、なぜか一度も送りバントがなかったんです」

これは、足の悪いことが知れ渡っている投手の、悪い足を狙ってバントするようなことは、卑怯な振る舞い、あるいは、他から後ろ指をさされても仕方のない行為と考えられているからだろう。この「暗黙の了解」は、盛田を大いに助けることになった。

応援の声に背中を押され再びマウンドへ

写真:妻・倫子さんと

盛田を支えてきた妻・倫子さん。「闘病中は精神的な面で、ずいぶん妻に助けてもらいました」

もうひとつ、盛田の話で興味深かったのは、2000年のオフに一度引退を決意しながら、翻意して大幅な年俸減を飲んで現役を続けたことだ。このとき引退していれば翌年の、オールスター出場、日本シリーズでの登板、そして、カムバック賞受賞はなかったのだから、翻意したことは正しい選択だった。なぜ盛田はいったん引退に傾きながら、現役を続けることにしたのか。

「僕は、ほんとのことを言うと、はじめから、やりたくなかったんですよ。手術前とはぜんぜんボールのスピードが違うし、体も言うことを聞かないわけですから。でも、たくさんの方たちから、盛田さんの頑張る姿を見て、たいへん励みになりましたって、手紙が来ることを考えると、とても、もうできませんよとは言えなくなるんです。それに、脳腫瘍から再起する過程で、たくさんの方が、この男を再び一軍のマウンドに立たせてやりたいと思って、さまざまな形で応援してくれたわけです。その意味でも、自分ひとりで勝手に幕を閉じるわけにはいかないと思いましたね」

カムバックしたら相手が見えるように

写真:盛田幸妃さん

現在は野球解説のほか、講演会も積極的に行っている。「目立ちたがりやで格好つけていた僕だけど、病気をしていろいろな人にお世話になり、謙虚になれた。病気をしたことがよかったとは言えないけれど、勉強させてもらったと思います。闘病生活やリハビリなど、僕の経験を1人でも多くの人に役立ててもらえるとうれしいですね」

手術前の盛田は、見知らぬファンからの手紙に心を動かされ、心と心の繋がりを感じる人間ではなかった。それが、脳腫瘍の手術で、絶望の淵をさまよったことで、世の中には、自分以上に大変な状態の人がたくさんいることを知り、その人たちと心を通わせながら支え合うことができるようになった。

そうした人間的な成長は、ピッチングにも大きな影響を与えている。

「脳腫瘍からカムバックしたあとは、マウンドで投げていても、相手が見えるようになった気がするんですよ。以前は、相手を力で押さえることに集中しすぎて、ゲームの全体像がまったく見えなかった。ところが、距離を置いて観察できるようになったので、相手も見えるし、試合全体を俯瞰する余裕もあるんです。だから、日によっては、今日はゲームを楽しんでやろうと思うことすらあるくらいです。その一方で、いい意味での開き直りができるようになり、今日はぶつけてもいいから、インハイの厳しいところをガンガンいくしかないなと、割り切った考え方もできるようになりました」

盛田が本当の意味で復活を果すのは2002年のことだが、この年見事な働きができたのも、相手が見えるようになったことが大きなプラスになっている。この年、盛田はノーアウト満塁のピンチに何度も登板して、たびたび見事なピッチングを見せている。とくにダイエー戦でノーアウト満塁のピンチに登板して、シュートで内角をえぐる大胆なピッチングで、城島、松中、井口の主力打者を完璧に抑えこんだ試合は、相手の弱点が見えるようになったことの証明と言っていい。

このようにゲームの見せ場で実力をいかんなく発揮した盛田は、その年、オールスターゲームのメンバーに選ばれ、シーズン終了後には、カムバック賞を授与された。

この二つの勲章は、脳腫瘍が盛田にくれたビッグなプレゼントだったのではないだろうか。

(敬称略)


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