胸をはってもう一度生きていこう 乳がんと鬱を乗り越えてきた経験が私を強くした 女優・音無美紀子さん
きっかけは点滴のミス

だが、年が明けると音無さんの気持ちに次第に影が広がっていく。きっかけは年明けから始めた抗がん剤治療だった。術後は経口の抗がん剤を服用していたが、1月からは月に1回のペースで点滴による抗がん剤治療もすることになったのだ。
音無さんはもともと抗がん剤治療の副作用に対し、漠然とした不安を抱いていた。しかも抗がん剤治療が退院後まで続くとは思っていなかったので、医師から新しい治療のことを聞かされたときはちょっとショックを受けたほどだ。それでも副作用の少ない抗がん剤だということで承諾した。ただ慶応病院の外来に通院するのは負担が重すぎるので、当時、音無さんが住んでいた世田谷区内の開業医を紹介してもらい、治療を受けることにした。
しかしそこで予期せぬ事態が起きた。点滴の針がきちんと血管に入っていなかったため、かなりの量が漏れてしまったのである。そして翌日、音無さんの右腕はパンパンに腫れ上がってしまった。そのことを電話で告げると、開業医は湿布で冷やせば腫れは引くというだけだった。
確かに腫れはいくらか治まった。けれども右腕は広い範囲でまだら模様の紫色に変色し、1カ月たっても消えなかった。
1カ月後、2度目の抗がん剤治療を受けに音無さんが再び訪れたとき、その開業医は「右腕は血管が細いし腫れもあるので左腕に点滴をしましょう」と言った。けれども慶応病院の医師からは、左腕は手術でリンパ節を切除しているので傷をつけないように注意されていたのである。そのことを話すと、開業医は聞き流すように「大丈夫」といって、左腕に点滴をした。
しかし、大丈夫ではなかった。今度もまた点滴が皮下に漏れ、右腕と同じように腫れ上がり紫色に変色してしまったのである。まだらになった腕の色は冷やしても薬を塗っても消えなかった。腫れ上がった両腕は痛みがひどく持ち上げられないほどの状態だった。
不安から心を閉ざす
これで音無さんの心に不信感が芽生え、1年間続ける予定だった点滴による抗がん剤治療は2回だけでやめてしまった。ところが治療をやめると、「抗がん剤をやめたら再発するのでは」という不安が頭をもたげてきた。
そして季節がだんだん春めいてくると、「もうじき半袖の季節になるけれど、この腕ではとても着られない」という新たな悩みが生じてきた。家族とごく親しい人以外には乳がんの手術をしたことを言っていない。ひたすら隠し続けてきた。だからもし人から「その腕、どうしたの」と聞かれても答えようがないのだ。
��だけではない。夏になって襟元の開いた服を着たら、胸の傷が見えてしまうかもしれない。手の爪も、気がつくとどんよりとしたネズミ色に変わっている。どうしようどうしようと考えているうちに、音無さんの気持ちはふさぎ込んでいく一方だった。
ちょうどその頃、音無さんにNHKのドラマ出演の話が持ち込まれた。ところが衣装合わせのときに監督が選ぶのは半袖やノースリーブで胸のシルエットがはっきり分かる服ばかり。それでも長袖のシャツの袖をラフにまくり上げるということで、衣装の問題はなんとかクリアできた。
しかし心の奥の不安は何一つ解消されていない。不安定な精神状態のまま本読みの場に出たが、セリフが思うように話せない。帰宅して改めてセリフを覚えようとしたが、まったく頭に入らず、そのうち自分のセリフがどれなのか、どんな場面設定なのかも分からなくなってしまった。
結局、翌日からロケが始まるという土壇場で、音無さんはドラマを降板した。
ママはどうして笑わないの
一部の抗がん剤には抑鬱状態になる副作用もあるといわれている。がんという不安を抱えることでも精神的な負担は大きい。そのため程度の差はあれ、がん患者の3割くらいが抑鬱状態になるという。16年も前のことだから、音無さんが鬱状態に落ち込んだ本当の原因がどこにあったのかは定かではない。ただ病気のことを必死になって隠していたことが、音無さんの気持ちを内向きにさせ、心がふさいでいく引き金になったことは間違いないだろう。
やがて音無さんは家族にも心を閉ざすようになっていく。
「あのころは死ぬことばかり考えていました。でも、死ぬ方法が考えられないんです。自宅の2階から下を見て、ここから飛び降りたら死ねるかなと思ったり。『死にたい』とつぶやくと、主人は『子供たちが大きくなった姿を見られなくていいのか』といいました。そういわれると、見たいなとは思う。でも、どうにかしなきゃと思うのに、どうにもできないんです。がんのときより鬱のときのほうが辛かったですね」
そんな音無さんを救い出したのは、家族だった。ある日、友達の家に遊びにいった長女を車で迎えに行ったときのことだ。助手席に座った長女は音無さんのほうを見ていきなりこう言った。
「ママはどうして笑わないの」
鬱状態にあったときも、音無さん自身は子供たちと話しているときや人と会っているときは、笑顔をつくっているつもりだった。だが実際にはそうではなかったことに、この一言で気がつかされた。そして母親が笑顔を忘れたことに子供たちがいかに傷ついていたか、音無さんは思い知らされたのである。
「これではいけない。自分にとって大切なのは女優としての自分ではなく、家族なのだ。夫のため、子供のために、もう一度いい妻、いい母になろう」
音無さんの心の中にそんな気持ちが芽生えてきた。生きていこうという意欲、頑張ってみようという意識が戻ってきた瞬間だった。
今はもう胸を張って歩くことができる

2004年のお正月は家族そろってハワイで
それからの回復は早かった。子供たちの世話をしたり、家事をしたり、散歩に出たり、少しずつ体を動かしていくようにすると、心のもやが次第に晴れていくのが自分でも分かった。食欲も出てきたし、夜も眠れるようになった。11月には友人と香港旅行にも出かけた。この旅行中に音無さんは、完全に鬱病が治ったことを自覚したという。
旅行から帰ってくると音無さんにテレビドラマ出演の依頼がきた。2時間もののホームドラマだ。約1年半のブランクがあったが、今度はなんの問題もなく撮影に入ることができた。
もちろん鬱状態を脱したあとも、がんの転移や再発に対する不安まで消えたわけではない。だから体にいいと人から勧められたものはなるべく試してみるようにした。退院1年後くらいからは漢方も始めた。それを機にそれまで続けていた経口の抗がん剤はやめた。食事も野菜と玄米中心に変えた。
「漢方については今でもやってよかったと思っています。薬をすっかりやめていましたから、それに代わって私の体をきれいにしてくれたのは漢方だったと思うようにしています。これはいいと思って飲むのと、疑いながら飲むのとでは、やはり違うでしょう」
それでも病気のことは公表していなかった。自分の意志で、自分の口で病気のことを初めて公にしたのは、2001年5月、テレビの『徹子の部屋』に出演したときだった。
「2000年を超えて、新しい自分に生まれ変わりたいという思いがあったので、自分の気持ちにけじめをつける意味でも話したほうがいいと考えたんです。結果的には話したことですごく荷が軽くなりました。もうどんな想像をされても平気。胸を張って歩けます」
生きようという意欲が立ち直らせた

2004年5月、音無さんは村井さんと共著の形で『妻の乳房「乳がん」と歩いた二人の十六年』(光文社)を出版した。その中で音無さんは乳がんや鬱に苦しんだ経験を驚くほど率直に語っている。
「一人でこもるのが一番悪いパターンなんですね。お互いに病気のことを語り合えるような場があったら、きっと私も鬱にはならなかったでしょう。同じ辛さや苦しさを分かり合える人がいるということだけでも癒される部分があります。だから私の経験を知ることで今、がんに苦しんでいる方やそのご家族が励まされることがあればいいなと思って、この本を書いたんです。
がんは早期に発見すれば治らない病気ではないし、自分の病気は自分で治すという意識を持つことが必要です。偉そうなことを言うつもりはありませんが、私も少しは成長したなと思いますよ」
『妻の乳房「乳がん」と歩いた二人の十六年』のなかで、村井国夫さんはこう書いている。
「妻を病気から立ち直らせたものは何か。(中略)それは家族の力によるものではなく、最後は彼女の、生きようという意欲だった」
辛い体験を乗り越え、新しい強さを獲得した音無さんは今、女優として命の輝きを放っている。
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