がんとダンスの間を強く、しなやかに生きるプロダンサーのど根性 肉腫という希少がんと闘いながら、治療の拠点「サルコーマセンター」設立に立ち上がった元ミス日本・吉野ゆりえさん
ブラインドダンスとの出会い
それから数カ月して、吉野さんにもう1つの出会いがあった。「ブラインドダンス」との出会いである。
そもそものきっかけは、日本ダンス議会が法人化され、社会貢献として視覚障害者にもダンスを広め、大会を開催してはどうかということから始まった。そして、吉野さんはその担当になった。
「ブラインドダンス」という言葉もこのとき誕生させ、2006年8月、「第1回全日本ブラインドダンス選手権大会」が開催されることになった。日本発、そして世界で初めてのブラインドダンス大会の模様は日本テレビ系列の「24時間テレビ」でも放送されることになった。
大会成功のため、東奔西走の日々を送るようになった。まだダンスを踊ったことのない盲学校の生徒の指導も吉野さんが担当することになった。
4センチの腫瘍が消えた!?

テレビ番組でも知られた「ウリナリ芸能人社交ダンス部」メンバーと盲学校の生徒がカップルを組んで大会に出場することも決まり、猛練習が始まった。
「最後の2カ月ほどは、死ぬほど忙しかった。でも、これを成功させれば自分が生きた証を残せると思いました。視覚障害者の人たちがこれから先、人生を楽しむため、生きがいとしてブラインドダンスを受け継いでくれたら……。自分が残せるものはこれだと思いました」
ところが、大会を1カ月後にひかえた7月末、新たな再発がわかった。見つかったのは4センチ大の大きな腫瘍である。肉腫は大きくなるのが速いから、手術もすぐに、と医者はいうが、吉野さんは懇願した。
「先生、どうあっても手術は、ブラインドダンスの大会が終わってからにしてください!」
再々発の腫瘍をおなかに抱えながら、身体を酷使する日々が続いた。1日に何カ所も移動して、レッスンに打ち合わせ。食事の時間も満足にとれず、レッスン場の盲学校の体育館は冷房がなく、40度ぐらいになる。ビッショリ汗をかいての指導で、1カ月で7キロもやせたという。
大会は大成功だった。盲学校の生徒たちの踊りもすばらしかった。生徒の言葉が心に残る。
「私���ダンスはスタイルがよくて美しい人がやるものと思ってました。だから自分なんかがやるもんじゃないと、最初はいやいやながらやっていたんです。でも、だんだんダンスが面白くなって。いつも『私を見ないで、私を見ないで』って、世間から隠れるようにして生きてきたのに……。あの日はドレスを着て、お化粧をして、髪を上げて、『私を見て!』って思って踊りました。人に見られることの快感を体験したのは、初めてです」
大会が終わり、手術が待ち受けていた。術前検査を受けたところ、信じられないことが起こっていた。1カ月前、たしかに存在した腫瘍が消えていたのだ。
40度の暑さの中でがんばったのが温熱療法の効果を生み、自分の生きた証にするという思いが精神的にもモチベーションを高め、免疫力の増強につながったのかもしれない。ひょっとしてもう再発しないのでは――そう思った。
しかし、1年後、やはり再発して、3度目の手術。「もう病気を隠すのはやめよう。カミングアウトしよう」と決意したのはこのころだ。
母へのカミングアウト
「3度目の手術を受けたときに、この病気は一過性のものではない、これからずっと付き合っていかなければいけないと覚悟するようになりました。そしてもう1つ、実は2回目の手術のあとの大晦日にネットでいろいろ調べたときに、『キュアサルコーマ』のサイトを見つけていたのです」
「キュアサルコーマ」とは、平滑筋肉腫の患者と家族が中心になって作った「肉腫の標的遺伝子療法を推進する会」のこと。平滑筋肉腫の治療法はいまだ確立していないが、新しい治療法として期待されているものに、大阪府立成人病センター研究所病態生理学部門長の高橋克仁さんらが開発した標的遺伝子療法がある。この治療法の実用化のために標的遺伝子療法を推進するという目的を明確に掲げた会として活動している。
3度目の手術のとき、思い出したのがこの会のことだった。その高橋さんに連絡をとり、自分のがん細胞の解析をしてもらった。
「高橋先生などと話す中で、肉腫が“忘れられたがん”だということを改めて痛感しました。たとえばGIST患者さんに認可されている分子標的薬のグリベック(一般名イマチニブ)やスーテント(一般名スニチニブ)という薬がありますが、たとえ私たちに効いても保険適用でなく、月に何10万円もかかる。その話を聞いて、それはおかしい、絶対に間違っていると思いました。でも、患者がいくら悩んでも解決できない。医療のシステムの問題だから、それを変えないとダメだ。変えるためには、患者自身が声を上げないといけないと思うようになって……」
最初にカミングアウトした相手が、母親だった。「母は、かなりショックを受けたようでしたが、私がやろうとしていることに賛成してくれ、『母さんもあなたを見習って、強く生きていくよ』といってくれました」
今をいきいきと生きる
まわりの友人たちにも、自分が後腹膜平滑筋肉腫であることを明らかにし、病気と闘いながら明るく前向きに生きる姿は、日本テレビ系列のドキュメンタリー『5年後、私は生きていますか?』で取り上げられた。少しでも肉腫のことを、自分の思いを知ってほしいと『いのちのダンス~舞姫の選択~』(河出書房新社刊)も出版した。とくにテレビの反響は大きく、Yahooの検索数で「吉野ゆりえ」と「平滑筋肉腫」が1ケタ台の順位に跳ね上がるほどだった。
同時に、彼女は行動を起こした。肉腫が希少がんで、がん対策として十分な対応がとられずにいるなら、せめて特定疾患(いわゆる難病)に指定してほしい、と厚生労働省に訴えたのである。
「でも、肉腫はがんの一種だから特定疾患には認定できないということでした。それならばと考えたのが、肉腫の先進国・アメリカにはあたり前に存在する『サルコーマセンター』を日本に設立するということです。患者の数が少なくても、サルコーマセンターに患者やそのデータを集結させ、そこで研究者や専門医が治療法や治療薬を研究開発し、身体中どこにでも転移する可能性のある1人の肉腫患者に対して、いろいろな科の肉腫専門医がチームとなって治療に当たる……そんなサルコーマセンターを実現させたい」
そう思っていたとき舞い込んだのが、がん患者支援のためのイベント「リレー・フォー・ライフ」への出演依頼だ。

2008年9月、新横浜で開催されたリレー・フォー・ライフで、「吉野ゆりえの『みんなでダンス』&トーク」というコーナーに出演。各地からやってきた肉腫患者や、ほかの希少がんの患者たちと感激の対面を果たし、吉野さんは呼びかけた。
「サルコーマセンターを日本に設立しませんか?」
参加者たちは涙を流しながら、盛大な拍手で賛同してくれた。
吉野さんはその後も再発をくり返し、5回目の手術も何とか乗り越えた。そんな彼女が、好む言葉がある。「感謝」、そして「今をいきいきと生きる」。
「最初のときに良性と間違われて、がんのタネをまき散らすような手術を受けたけれど、執刀医の先生を1度も恨んだことはありません。それは肉腫の研究の遅れであり、日本の医療システムの問題であって、その先生が悪いわけじゃない。大事なことは、助かったからよかった、死んでしまったから悪かったではなく、患者にとって納得のいく、最高の医療を受けられているのかどうか。今、私たち肉腫の患者は、満足のいく治療をまったく受けられていないけれど、そんな現実を、私たち自身が変えていかなければ……。自分の人生なんだから、納得のいく生き方をしたいもの」
父が亡くなって、兄も亡くなったとき、彼女は、「自分の分も含めて人の3倍密度の濃い人生を生きよう」と誓ったという。ところが後腹膜平滑筋肉腫になって、一瞬、「どうしよう」という気持ちになったが、すぐ思い直し、今はこう誓っている。
「それなら人の10倍、有意義に生きてみせよう」
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