40キロちょっとに痩せ細った体で抗がん剤治療に堪えた空白の6カ月 悪性リンパ腫から生還した青島幸男さん

取材・文:吉田健城
発行:2005年1月
更新:2018年9月

5年生存率は28パーセント

青島さんがS先生から自分の病気ががんの一種である悪性リンパ腫であることを告知されたのは、手術から1カ月ほどあとのことだった。美千代さんの著書『青島家の家族会議』(主婦と生活社刊)によれば、美千代さんがS先生からご主人の本当の病名と予後の良くないタイプであることを知らされたとき、2人で相談して、抗がん剤による治療が始まる前にS先生から告知することになっていたようだ。

予後が良くないがんの場合、杓子定規に本人に告知するのは考えものなので、告知のタイミングとしては極めて妥当なものだったと言えよう。

「S先生から告知を受けたとき、5年生存率は28パーセントだと言われたんだけど、それで自分は死ぬんじゃないかと思うことはなかったですね。そのときに4種類の抗がん剤を使った治療が始まると激しい副作用が出ることも聞いたんだけど、素人がいくら聞いても判るもんじゃないから、S先生に“何でもやってください”と言ったのを覚えています」

抗がん剤の投与が始まると、青島さんは副作用に苦しみ始めた。

開始前に長時間ベッドに横たわりながら抗がん剤の入った点滴を受けることになると聞いていたので、本をいくつか持ってきていたが、とても、そんなことができる状態ではなかった。こみ上げてくる不快感に耐えるため、青島さんはまんじりともせずにベッドに横たわりながら時間が過ぎて行くのを待った。

「もう、気持ち悪いなんてもんじゃない。ひどいときは、こんなに苦しい思いをするのなら死んだほうがマシだと思えてくる。僕の病室には、なぜか窓に鉄格子が取りつけられていたんだけど、初めはその理由が判らなかった。でも、抗がん剤をやるようになって、これは、副作用に耐えきれなくなった患者が衝動的に窓から飛び降りるのを防ぐのが目的なんじゃないかと思いましたよ」

40キロ台前半に落ちた体重

写真:青島さん

「抗がん剤治療中は1日も早く仕事に復帰することだけを考えていました。つらかったけど、今はこうして元気です。同じような治療中の方に、私の元気な姿を見てもらって、励みにしてもらえるとうれしいですね」

最も大きい副作用は口内炎だった。抗がん剤はがん化したリンパ球だけでなく正常な免疫細胞も殺すので、投与が始まるとウイルスや細菌に対する抵抗力がどんどん低下してゆく。青島さんの場合それが口内炎という形になって現われたのだ。

「副作用で髪の毛が抜け落ちたし、爪もフニャフニャになって剥がれてしまった。でも、これは予想されたことだし、入院生活に大きな支障が生じるわけでもない。でも、口内炎は違いますからねえ。これで固形物が食べられなくなったから、口にできるのはアイスクリームとお湯に溶かすだけですぐ飲める固形スープだけという状態が続いたんです。おかげで52、3キロあった体重がどんどん減って40キロ台の前半まで下がってしまったんだけど、死ぬんじゃないかと思ったことは1度もなかったですね」

こうした強い副作用に苦しみながらも青島さんは抗がん剤の副作用に耐えぬくことができた。それを支えたのは、毎日病室に来て話し相手になりながら励ましつづけた奥さんの美千代さんだった。

そのときの心境を美千代さんはご自身の著書『青島家の家族会議』の中で「(抗がん剤投与は)大変な治療なので、見ている私のほうがやめて欲しくなるほどでした」と記している。

がんをモチーフにした傑作を!

写真:アートの分野でも才能を発揮
アートの分野でも才能を発揮。
2004年個展を開いた

抗がん剤による治療が終ったあと、青島さんは「完治させるためには、放射線治療を受ける必要がある」という主治医のS先生の勧めに従い、短期間、放射線照射を受けてから退院している。

結局、入院生活は半年に及んだが、悪性リンパ腫で入院生活を送っていたことは表沙汰にならずに済み、青島さんはその年の内に、番組に復帰することができた。

とはいえ、退院してまだ日が浅いため、頭の毛は「早春の草原」状態で、そのままではテレビに出るのが憚られる。そこで、青島さんは、奥さんの美千代さんに言って家にあった女物のかつらを持ってこさせると、ハサミでジョキジョキ長い部分をカットして「番組用」のカツラにしてしまった。よく即席でこんなことが出来るものだと感心してしまうが、よく考えて見れば、『意地悪ばあさん』では、いつも、おばあさん役でカツラを着けていたのだから、カツラは得意とするところなのかもしれない。

「そのカツラをしばらく被ってたんだけど、お正月番組に出るとき、鏡で見たら自毛がけっこう伸びてきていたんで、こんなの取っちゃえと言って、その場のノリで取っちゃった記憶があります。髪の毛に比べると体力の回復ははかばかしくなくて、家に帰ると疲労困憊でぐったりとしちゃう。そんな状態だと家族に嫌な顔を見せなくちゃいけないので、退院したあと、一時期仕事が終ったあと病院に行って寝泊りしていたことがありました。でも、そんなことをしたのも年末までで、少し体力が戻ってきたこともあって、年が改まってからは、家で過ごすようになったと記憶しています」

こうして青島さんは見事に悪性リンパ腫を克服して、病気による中断を8カ月たらずで終らせることができた。しかし、元々食が細いこともあって体力の回復は思うように進まなかったようだ。にもかかわらず、退院してまだ1年もたたない時期に金丸自民党副総裁の辞任を求めて国会前でハンガーストライキを敢行したため、たちまち脱水症状に陥り救急車で病院に担ぎ込まれる騒ぎとなった。

こうしたハプニングがあったものの、その後の青島さんは無党派層の絶大な支持に押し上げられる形で東京都知事に就任。公約通り1期4年知事を務めて退任している。

これは若いころ、当時死因のナンバーワンだった結核に感染し、長い間後遺症に苦しめられながらも、それをバネにして出世街道を突っ走っていった図式とよく似ている。熟年になってから青島さんを苦しめたのは現在の死因ナンバーワンであるがんだ。そのがんを青島さんは抗がん剤にトコトン苦しみながらも克服し、復帰後は無党派層の支持を背景に大きな政治の流れを作り出した。

青島さんは結核で苦しんでいたころの思い出をふんだんに織り込んで『人間万事塞翁が丙午』というタイトルの傑作を書き上げた。それを考えれば、がんの治療で苦しんだときの記憶をふんだんに織り込んだ『人間やっぱり塞翁が丙午』なんていう題名の小説があってもいいのではないだろうか。

もしそれが実現すれば、がん患者の大きな心の支えになるだけでなく、エスプリに乏しいがん関連出版に大きな刺激を与える作品になるように思うのだが。

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