35年間のがんだらけ人生を生き抜く〝3人の自分〟 4つのがんを体験した財政再建の鬼・与謝野 馨さん

取材・文●吉田健城
撮影●向井 渉
発行:2013年1月
更新:2018年9月

術後、思うように食事がとれない状態に

手術は頭頸部がんの第一人者として知られる医師の執刀で行われ、無事終了。手術時間は10時間に及んだ。術後の経過はどうだったのだろう。

「食道が極端に狭くなり、通過障害や誤嚥で2カ月くらい思うように食事が取れない状態が続きました。それにより61㎏あった体重が49kgまで落ちました」

しかし、食道を拡張する治療を受けるようになると、徐々に通りがよくなった。さらに、食べ物をうまく飲み込む訓練を重ね、誤嚥せずに飲み込むコツを掴んだため、自力で栄養補給ができるようになり、3カ月の入院の末、翌2007年1月に退院の運びとなった。

放射線性膀胱炎で「血まみれ」の選挙に

こうして、4つのがんを経験した与謝野さんだが、苦しめられたのはそれだけではなかった。治療による後遺症にも、長年悩まされ続けることになる。それが、放射線治療による膀胱炎だった。

与謝野さんは、前立腺がんの治療を受けてから1年後の2003年から、膀胱からの出血が頻発。その後約6年間にわたって血尿に悩まされ続けるようになる。ひどくなると、出血した血が塊となり、尿管に詰まって排尿ができなくなることもあり、膀胱を洗浄しなければならなかった。

血尿がピークを迎えたのは、自民党に強い逆風が吹いた2009年8月の衆院選だった。選挙準備に追われる中でも、膀胱からの出血が頻繁に起きるようになり、国立がん研究センターの医師からドクターストップがかかったのだ。医師からは「このままではもたない」と、短期間入院して膀胱壁の出血箇所を電気メスで焼く手術を受けるよう勧められる。与謝野さんは、公示6日前の8月12日に入院し、17日に全身麻酔による手術を受けることとなった。

18日が衆院選の公示日だったため、手術の翌日、与謝野さんは硬膜外麻酔を背中に取り付けたまま背広を着込んで選挙カーから出馬の挨拶を行った。しかも、炎天下での演説。演説終了後、よろけてその場にしゃがみこんでしまうなど、体力は限界寸前だった。

この放射線性膀胱炎による血尿は、総選挙で当選後(比例区当選)しばらくして快方に向かい、翌2010年春には、ほとんど血尿が出なくなった。国立がん研究センターの医師に勧められて始めた高気圧酸素治療という方法がよく効いたのである。

体力も気力も十分に回復した与謝野さんはその年の春、平沼赳夫氏らと新党「たちあがれ日本」を結成(その後離党)。さらに翌2011年1月には、民主党の求めに応じて第2次菅改造内閣に経済財政担当相として入閣し、「社会保障と税の一体改革」を具体化させる作業を任された。与謝野さんは担当大臣としてその成案決定に全力投球し、6月中には成案ができ上がった。

声を失っても普通に生きられることを選択


下咽頭がんの影響で声を失った与謝野さん。取材は編集部の質問に筆談で答えてもらう形で進んだ

8月の菅内閣総辞職で与謝野さんは閣外に去ることになったが、この成案は野田内閣に引き継がれ、今年の通常国会に法案として提出され、6月に衆議院を通過、8月に参議院でも可決され、成立の運びとなった。

しかし衆議院で可決されたとき、そこに最大の功労者である与謝野さんの姿はなかった。国立がん研究センターに入院していたのである。

「入院の直接の原因は誤嚥性肺炎でした。手術した箇所が時間の経過や年齢的要因でどんどん狭くなり、ファイバースコープがやっと通るくらいの狭さになっていたので、食物の通りが悪くなり、気管のほうに入ってしまうことが頻繁に起きるようになったのです。食道の狭窄がそこまで進むと、食べることも十分できなくなり、栄養失調に陥ってしまいました。そうなると胃ろうで栄養補給するしかないので、食べものの通る道と、空気の通る道を完全に分ける手術を受けることにしたのです」

食べたものがつかえないよう、食道部分を真っすぐな形に直すには、喉頭の摘出が不可欠となるが、これは同時に声を失うことを意味する。それを承知で手術に踏み切ったのは、栄養補給を胃ろうに頼り、誤嚥に苦しむ生活より、声は失っても普通に食べたいものを食べて日常生活を送りたいという判断があったからだ。

6月中旬に始まった入院生活は2カ月に及んだ。声を失った与謝野さんは入院中に引退を決意。退院後、次の選挙には出馬しないことを後援者たちに文書で伝えた。

胃ろう=腹壁から胃内に管を通して、食物や水分、薬剤を流し込んで投与する処置

自分の中にいる“3人の自分”

『全身がん政治家』
文藝春秋 1,470円(税込)

39歳で悪性リンパ腫に罹り、35年にもわたり4つのがんと闘い続けてきた与謝野さん。以前、主治医に言われた言葉がある。

「与謝野さんみたいに、冷静に、客観的に自分のことを見られる人のほうが、結果的に良い経過をたどるんですね」

なぜここまで淡々と自分の病を受け入れることができるのだろうか。

「35年の『がんサバイバー』生活で、私の中には“3人の自分”がいるようになりました。政治家、闘病する患者、そしてそれを客観的に見る自分です。ベストの選択をするためには、あまり感情にとらわれない客観的な判断が必要です」

こう与謝野さんは紙に綴った。最後にがんになって教えられたことは何かと問いた。

「人間は、いつかは死ぬということです。医学にはできることとできないことがありますから」と書き込み、少し間を置いてから「もう1つ、がんの治療と財政再建には共通点が多いことも教えられました」と記した。

それはどういうことか問うと、与謝野さんは「耳に痛いことでも初めに正確な病状を知り、たとえ苦い薬でも飲んでもらわなければならないし、難しい手術でも受けてもらわなければならないからです」とペンを走らせ、目元に笑みを浮かべた。

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