死ぬまで競馬を愛し続けた勝負師 スキルス性胃がんに侵されながらも「馬一筋」を貫いた心優しき苦労人──。吉永正人さん(騎手・調教師)享年64

取材・文:常蔭純一
発行:2012年9月
更新:2019年7月

吉永さんだからこそ成立した騎乗法

調教師になっても馬に対する情熱は衰えなかった

調教師になっても馬に対する情熱は衰えなかった

この大冒険の裏には、実は緻密な計算が隠されていたわけだ。そして、それは吉永さんだからこそ成立する展開でもあった。

「普通の騎手ならこの作戦を実行しようとしても、あれだけ先頭から離されると本当に大丈夫かと動揺してしまいます。すると馬にもその動揺が伝わって、勝手に走り出してしまうものです。プレッシャーをプレッシャーと感じない吉永だからこそ、こんな型破りなレース展開が可能だったのでしょう」

と、みち子さんは振り返る。同じ年の秋、吉永さんはクラシックレースの最後の関門、菊花賞でも同じ戦法で優勝を果たし、シンザン以来、実に17年ぶりの3冠馬のジョッキーとなる。そうしてその後も吉永さんは、騎手として着実に実績を積み重ね、3年後の86年に現役を引退。89年には吉永厩舎を開業し、調教師として競馬にかかわるようになる。もっとも、競馬に自らの夢を重ね合わせる吉永さんの生き方は決して変わることはなかった。

「あの人には2つの夢がありました。1つは自分の出身地である九州からトップホースを輩出させること。もう1つは小口馬主の馬で大レースを勝ち、多くの人たちと喜びを分かち合うこと。調教師になってからも経営効率のことなどそっちのけで、そんなことばかりを考え続けていたのです」(みち子さん)

そのころには騎手仲間から調教師仲間になっていた小島さんも「九州にいい馬がいる。来年が楽しみだ」と、聞かされ続けていたという。

知らないうちに蝕む病魔

そんな吉永さんに体調の異変が現われたのは06年初めのことだった。その年の3月、アメリカに在住していた息子が久々に帰国して来たため家族全員で食事をした。その食事の席で吉永さんを見て帰国した息子は「親父、やせたね」と漏らしたそうだ。しかし、折々に吉永さんと顔を合わせているみち子さんたちは、その微妙な変化に気づかない。

それから2カ月後の5月、状況は一変した。みち子さんは、当時騎手として働いていた長男の護さんから「病院に行くように親父を説得してほしい」と連絡を受けたのだ。すぐにみち子さんは吉永さんを説き伏せ、病院に向かった。そこで目の当たりにしたのはすっかり変わり果てた吉永さんの姿だった。

「絵に描いたような頑健な人で、私と暮らしていたときは風邪すらひいたことがなかった。病院にも行ったことがなく、1度、歯科医院で治療を受けたことはあったが、その際にも治療費の払い方もわからず、黙って帰ってきてしまうくらい医者とは無縁の人でした。そんな人が騎手時代の減量��でも見ることができなかったほど、痩せさらばえていた。本人は『腹が減らねえんだ。胃薬でも飲めば治るよ』、と笑っていたが、どうみてもただごとではないと直感せざるを得ませんでした」

と、みち子さんは言う。

病院から告げられた検査結果はスキルス性の胃がんで手の施しようがない末期状態というものだった。

後で医師から聞くと、がん細胞が胃壁を覆い尽くし、そのために胃が硬直化してまったく働かず、そのために食欲も起こらない状態だったそうだ。しかし、そんな最悪の体調で吉永さんは前日まで九州の馬産地を歩き廻り、検査当日も朝の調教を行っていたのだ。

数日後、セカンドオピニオンを求めて、千葉県柏市の国立がん研究センター東病院で検査を受けるが、やはり結果は変わらなかった。病院は満室で入院もできなかった。しかし、みち子さんが精算をしているときに、ロビーの椅子に腰かけていた吉永さんが転倒、前の病院に戻ることもできないくらい体力は低下していたため、そのまま吉永さんは同じ病院の一般病棟に入ることになる。

すでに治療のすべもなく、栄養剤の点滴だけが行われているような状態だった。しかし本人はそのことに気づいていなかった。

「4期の告知は本人の前で行われました。でも吉永はその意味をよくわかっていなかったのでしょう。何で早く切ってくれないのか? とこぼすこともありました」

病室で九州産馬の勝利に喜ぶ

生還を信じる吉永さんは病室でも、競馬に関するテレビを見続け、調教助手を呼びつけては、馬の育成の指示を出していた。もっともその間にも、症状は刻一刻と悪化し、それまでは感じることのなかった痛みも起こり始めた。痛みに強かった吉永さんが胃のあたりを抑えて、「ここで火の玉が暴れてるんだ」と訴える姿に、みち子さんは言葉を失ったという。

しばらくして、吉永さんは別の小さな病院に転院する。もっと静かなところで最期のときを迎えさせたいというみち子さんの願いに応えて、小島さんが紹介した病院だ。そこでも吉永さんは競馬のことを考え続けていた。亡くなる少し前には、長男の護さんが小倉競馬場で九州産馬に騎乗した。吉永さんや関係者が病室で見守るなか、見事に優勝を果たしたことがあったという。そのレースを病室のテレビで見ていた吉永さんは、まさに欣喜雀躍の呈を示していたそうだ。

間もなく吉永さんは自らの人生を再確認するかのようにビールを求め、みち子さんに「オレは幸せ者だ」といい残して旅立っていった。それはよけいな部分がまったくない馬一筋に生きた男の最期だった。

みち子さんは自分の身に危険が迫ったとき、吉永さんの飄々とした表情が脳裏に甦るという。

「東日本大震災の影響で、大きな地震が続いた時期がありました。そんなとき、まっさきに顔が浮かぶのは息子たちではなく、あの人なんです。怖いけれど、あの人が必ず救出に来てくれると思って安心する。でも次の瞬間には、もうあの人はいないことに気づかされる。そして、自分だけ看取られて、さっさと先に行ってずるいじゃないかと思ってしまうのです」

あるいはここまで人に思われることも、自分の道を淡々と律儀に歩き続けた男の勲章といえるのかもしれない。


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