鬼の演出家の志は役者たちに引き継がれた 最期まで闘い続けた演劇人は後進に囲まれこの世を去った──。野沢那智さん(声優・パーソナリティー・演出家)享年72

取材・文:常蔭純一
発行:2012年7月
更新:2018年10月

灰皿、スリッパが飛んでくる那智収容所

厳しい演技指導はより良い作品を作るために行われた

厳しい演技指導はより良い作品を作るために行われた。その指導の下、多くの役者が生まれた

野沢さんは声優であると同時に、劇団「薔薇座」の主宰者でもあり、演出家でもあった。否、野沢さんは演出家こそが本業と心得ていた。菅谷さんが「薔薇座」に入団するのは、野沢さんがこの劇団を立ち上げた3、4年後のことだった。

「当時はまだ1回も公演を行っておらず、毎日レッスンに明け暮れていました。野沢さんから見れば、僕たち劇団員は舞台に上がれるレベルに達していなかったのでしょう。当時の野沢さんはサングラス姿で木刀を持って稽古場に来ており、ただただ怖い人という印象だった。野沢さんがいるだけで、稽古場はピンと張りつめたように緊張が走り、トイレにも行けなかった。下手な演技をすると、容赦なくスリッパや灰皿が飛んできた。僕たちは劇団を那智収容所だなんて言っていたぐらいです」

と、菅谷さんは野沢さんの厳しさについてこう語る。そのころ、菅谷さんと同様、野沢さんにシゴかれた役者仲間に玄田哲生さん、戸田恵子さん、高島雅羅さんといった現在でも第1線で活躍している役者が多数いる。

また声優の仕事に取り組むときと同様、演出家としての野沢さんも他に類を見ない勉強家であり努力家だった。

「舞台の演出はもちろん、声優、またパーソナリティーとしても膨大な知識が必要です。資料として、何千枚ものレコードを買い集め、聴き、さらにギリシャ悲劇からミステリー、政治に至るまで、何千冊もの書籍を所有していました」(聡さん)

演劇の本場、ブロードウェイの情報についてもくわしく、ごく小規模な公演でも、興味のある演劇があったとき、その台本を買い求めて米国まで足を運ぶことも再三だったという。

「薔薇座」の公演が本格的にスタートしたのは、菅谷さんが入団して3年が経過した後のことである。都合6、7年はただひたすら稽古に明け暮れていたわけだ。当初の演目はフランスの古典劇やギリシャ悲劇が中心だったが、やがてミュージカルへと移行する。それからがさらに大変だったと菅谷さんは述懐する。

「芝居に加えて歌、踊りも稽古するのだから、レッスンは以前にも増して厳しくなりました。朝、10時から翌日の朝7、8時まで稽古が続き、舞台の暗幕にくるまって、やっとひと眠りするありさまでした」

野沢さん自身は、稽古の合間に声優の仕事のためにスタジオに出かけ、また戻って稽古に臨んだ。菅谷さんはそんな野沢さんに「この人は一体、いつ眠っているのだろう」と不思議に思っていたという。

厳しい稽古の賜物だろう。「薔薇座」はミュージカルの世界で劇団四季と並び称され、88年には「スィート・チャリティ」で文化庁芸術祭賞を受賞する。しかし頂点の時代は長くは続かず、92年に運営上の問題から「薔薇座」は解散する。

もっとも、その後も野沢さんの活動は精力的に続き、97年には新たな人材を世に送り出すために、「PAC」を設立する。後年、菅谷さんや戸田恵子さんらに古希を祝われたとき、野沢さんは「この顔ぶれでもう1度芝居をやれたら良い作品が作れるのになあ」と漏らしたそうだ。「冗談めかして話していたが、目が本気でした」と菅谷さんは懐かしそうに語る。

がん宣告にも 屈しなかった

そんな野沢さんが病いに襲われるのは、09年頃のことだ。

05年頃から左手に痛みを感じ、検査を受けると、頸椎の損傷が見つかり、手術を受けるが痛みは治まらない。当初は仕事に打ち込んでいるときはさほど痛みを感じずにいられたが、やがて症状は右手にも広がり、絶えず痛みを感じるようになった。

09年に再度精密検査を受けたが、原因を特定できず、対処療法として鎮痛薬の投薬治療が開始された。そして彼を励まそうと催された酒宴の席で、知人と衝突し歯を折ってしまうという不運も重なった。そうした体調の悪化のなかで、野沢さんの仕事のペースはスローダウンを余儀なくされる。しかし、それは自分自身や他者を徹底的に追い込んで、仕事を続けてきた野沢さんには、それまでにないくつろぎの時間となった。

聡さんは、主にミュージカルの世界で舞台俳優として活躍していたが、健康を害した父親を気遣い、そのサポートに専念する。それから野沢さんが亡くなるまでの約1年半の間、野沢さんと行動を共にする。もっとも健康を損ねても野沢さんには悲壮感はなく、聡さんや家族とのなにげない日々を楽しみ続けた。

「それまで彼のことを芝居一筋の男だと思っていました。しかし、より身近に接してみるとまったく違っていました。夜、仕事の帰りに本屋に立ち寄り、グルメ本を買い込んで、明日はここで昼飯にしようなどと言う。仕事以外には、何にも興味を示さなかった以前の父とはまるで別人でした」

仕事一筋だった野沢さんにとって、それは人生で初めて訪れた休息になったのかもしれない。

しかし、そんな蜜月の期間は短かった。本格的に腕に痛みが現われてから約1年後、聡さんは精密検査で野沢さんが肺がんを患っていることを医師に告げられる。10年6月のことだ。

聡さんは医師から肺がんであることを告げられた後、本格的な治療を行うためにがん専門病院を選び、入院準備を整えた上で野沢さんに肺がんであることを伝えたという。

「PAC」の生徒たちとの1枚。後進の指導にも力を注ぐ

「PAC」の生徒たちとの1枚。後進の指導にも力を注ぐ

もっとも野沢さんは、それにも全く動じなかった。実は「薔薇座」を主宰していたときに1度、早期のがんを患っており、そのときは数カ月の治療で全快している。その経験があるからだろう。野沢さんはがんと聞いても、さほどの落ち込みは見せず、「必ず治して復帰するから誰にも言うなよ!」と闊達に言いながら、病室に向かっていった。仕事からがんへと矛先を変え、再び野沢さんの闘いは始まった。

「抗がん剤治療のため、入院していたときも気力は旺盛でした。歌舞伎のDVDを見ながら、次の作品の演出プランを考えたり、『PAC』の学生のことを盛んに気にかけていました。実際、携帯電話を使って、ギリギリまで仕事をしていました。父はまだまだやる気満々だったのです」

志は後進たちへ──。

しかし日を追うごとに、衰弱が激しくなり、がんとわかってから4カ月後の10月下旬、聡さんは野沢さんをホスピスに移す。

そこで野沢さんは数日間、昏睡を続けた。ふと目覚めたとき、聡さんに「パソコンを持ってきてないか?体の状態を見たいんだ……」と訴え、また眠りについたそうだ。ここに至っても、野沢さんは決してがんとの戦いを諦めていなかった。

しかし眠りについた野沢さんが、再び目覚めることはなかった。翌朝、聡さんや数10人の弟子たちに見守られながら、まるで演劇の1シーンのように、穏やかな表情で永遠の眠りについたのだった。享年72歳。

数日後、東京、浜町で営まれた葬儀で、菅谷さんは戸田恵子さんと顔を合わせた。2人は言葉を交わすことなく、ただ握手して別れたと語る。それは野沢さんの遺志を引き継ごうという2人の暗黙の意思確認だったに違いない──。


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