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アメリカ帰りのブルース歌いは、静かに日本の大地に沈んだ 「兄貴」と慕われたその人は、何も言わずに1人で去った──。デイブ平尾さん(歌手)享年63
酒を飲まなければ話せない
もっとも平尾さんにしてみれば、バンド解散後のほうが幸せな時代だったかもしれない。ミッキーさんは平尾さんの人柄についてこう語る。
「何でもオレに任せとけという親分肌の人だった。そうして今度はその仕事を、お前に任せたと人に振る。欲のない人でヒット曲を出したい、稼ぎたいということはまるで考えていなかった。好きなお酒を飲んで、友人たちと一緒に好きな歌が歌えればそれでいいと思っていたのです」
無欲な平尾さんは、カーラジオで聞いて、初めて「長い髪の少女」がヒットしていることを知ったほどだったという。また平尾さんの酒好きはつとに有名で、カップス時代にも、必ずウィスキーの水割りで唇を湿らせてからステージに上がっていた。
「親分肌なのにシャイな一面もあった。お酒を飲まないと、うまく人と話せなかったのです」
と、ミッキーさんはいう。
後にカップス再結成の打ち合わせで会ったときにも、押し黙る平尾さんにミッキーさんはビールを差し出し、ようやく話をさせているほどだ。
カップスの解散後、平尾さんは東京、六本木で「ゴールデンカップ」、さらに「ボールド」というライブハウスを誕生させ、自らは店の専属歌手となる。
ステージの傍らにはミニバーが設けられ、平尾さんの好きなウィスキーが並べられていた。平尾さんは毎日のように来訪する音楽仲間とともに語り、そして歌っていた。ライブハウスで育った平尾さんは大きなステージより聴き手の間近で歌うことを好んでいた。その意味では平尾さんは自らの原点に回帰したといえるかもしれない。また同じ時期に平尾さんは俳優業にも進出している。
横浜ゴールデンカップのオーナー、上西さんにはそのころ、平尾さんの情の厚さを感じる出来事があった。
「テレビ局から連絡があって、バラエティ番組のご対面コーナーで平尾君が僕にぜひ出演してほしいといっているという。僕には何の相談もなくデビューして、それから何の音沙汰もなかったけど、内心では僕のことを気にかけてくれていたのです」
その後、03年にはかつて大ファンだったあるプロデューサーがカップスの足跡をたどった映画「ワン・モア・タイム」を企画。それを契機に、かつてのメンバーによりバンドが再結成され、年に何回か大規模なコンサートも行われるようになった。
長年、酒、タバコに親しんでいた平尾さんにがんが見つかるのは、そうした平穏だが充実した日々を送っているさなかのことだった。
酒、タバコを絶って治療に専念
08年春、横浜市の神奈川県民ホールでかつてのグループサウンズによる音楽フェスティバルが開催された。その帰途、実家に立ち寄った平尾さんは兄弟、姉妹から、それまで見向きもしなかった健康診断を受けるよ��勧められる。
数カ月後、平尾さんが重い腰を上げて病院を訪ねると、皮肉なことに食道にポリープが発見される。横浜市立大学病院で精密検査を受けると、ポリープではなく、がんであることが判明した。
「先生からは生活習慣が原因と指摘された。それで時宗はがんが治るならと、長年親しんだお酒やタバコと縁を切ることを決断したのです」
そうして同じ年の10月にがんの切除手術が行われる。手術は7時間を要したものの、術後の経過は順調で病室もICUから個室、そして4人部屋へと日を追って変わっていった。平尾さん自身も気落ちした表情を見せることはまったくなく、本人も富子さんたちも、すぐに以前の生活に戻って、また歌えるようになると信じていた。
「入院中も時宗は屈託はなかった。そのころ、オバマさんがアメリカ大統領に就任したのですが、あの人で大丈夫だろうか、とおかしな心配をしていたほどでした」
と、富子さんはいう。
しかし術後、約1カ月が経過した11月10日、状況は一変する。
その日の早朝、病院から妹の貴美子さんに平尾さんの容態が急変したことを伝えられる。知らせを聞いた富子さんが病院に駆けつけると、医師たちが電気ショックで平尾さんの蘇生を試みていた。しかし平尾さんの意識が戻ることはなかった。
「時宗に何が起こったのかはわからない。ただもう生きていないことだけはわかった。それですぐに電気ショックを止めてもらいました。時宗に気の毒な気がしたのです」
日本の音楽界に一時代を築き、多くのファンやミュージシャンを魅了した天性のヴォーカリストはこうして1人ぼっちで旅立っていった。平尾さんの容態を記録し続けていた富子さんは、その日、たったひとこと「くやしい」とノートに記している。
音楽の出発点からの旅立ち──
病院からの帰途、富子さんは平尾さんの柩を乗せた車を、ゴールデンカップの前で数分、停車させ、音楽人生の出発点になった場所に別れを告げさせている。後でその話を聞いたオーナーの上西さんは、なぜか平尾さんの情を感じて目頭が熱くなったという。
翌09年1月、横浜のレストランで平尾さんの「追悼トリビュートパーティ」が催された。死に際の寂しさとはうらはら、会場には沢田研二さんら多くのミュージシャンが駆けつけ、グラスを片手に平尾さんが好んだリズムアンドブルースのナンバーを熱唱した。それは酒と友とそして何より、歌を愛し続けたガキ大将にとって、1番のはなむけになったに違いない。
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