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「マンガの神様」が最期まで続けた挑戦 力尽きるときまで描き出したのは、命の輝きだった──。手塚治虫さん(マンガ家)享年60
アイデアは売るほどある
もっとも手塚さんの仕事がずっと順調に進んでいたわけではない。昭和40年代後半には劇画ブームが訪れ、さしもの手塚人気にも翳りが現われる。また関連会社の倒産で借財を抱え、東京練馬区の自宅の売却をも余儀なくされる。手塚さん自身が自伝で「冬の時代」と語っていた時期である。
しかし、まもなく再び春の陽が差し込み始める。きっかけはある少年誌からの連載依頼だった。そこで手塚さんは落ちこぼれ医師が主人公の「ブラック・ジャック」の連載を開始する。
「少年誌で医師の話は難しすぎると思ったが作品を読んで不安は消し飛んだ。キャラクターがきわだち生命の尊厳を守り抜こうとするメッセージ性にも富んでいる。『これならいける』と手ごたえを感じました」
この作品は大ヒットとなり、その後も「三つ目が通る」「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」など意欲作を発表、手塚さんは新たな絶頂期を迎える。中年期を迎え手塚さんの創作意欲はそれまでにも増して燃え盛っていた。
「アイデアは売るほどあるというのが先生の口癖。出版社から執筆依頼があると必ず3、4案の企画を用意していました。いつもやりたいことをいっぱい抱えていたのです」(松谷さん)
また、このころから手塚さんは「マンガの神様」と称されるようになる。しかし手塚さんはそうした世評を意に介することは一切なかった。
「出版社から漫画賞の選考委員への就任依頼があると、選考される側になりたいと話していた。読者の人気投票の結果をいつも気にし、若手作家の作画アイデアにも目を開き、手塚流に咀嚼し取り入れた。子供たちにメッセージを送るために少年誌に連載したいと訴え続けていた。周囲から『神様』と呼ばれても、本人は挑戦者として仕事に臨んでいたのです」
と、松谷さんは振り返る。
子供たちに夢を与えたい

そうして衰えを知らぬ活躍を続ける手塚さんに体調の異変が現われるのは昭和60年以降のころである。最初は肝臓で、徐々に胃の不調を訴え、定期的に検査を受けるようになる。
もっとも異常は発見されず、手塚さん自身、「僕の胃は真っ直ぐだから潰瘍のできる場所がない」と話していたという。しかし昭和62年ごろには体調はさらに悪化、翌年には食事もろくに喉を通らなくなった。そこに至ってようやく胃がんが発見される。症状はかなり悪化しており、胃の全摘手術が必要だった。
夫人とともに担当医から告知を受けた松谷さんは、夫人の要望もあり、本人には告知しなかった。そうして翌年3��、本人には「胃にできた潰瘍を取り除く」と説明したうえで胃の全摘手術が行われた。幸い術後の経過は順調で、手塚さんは「グリンゴ」など3本の連載漫画の執筆を再開、イタリアからのアニメーション他2本のテレビアニメーションの制作にも着手する。
もっともこの時期の手塚さんについて、眞さんは「生き急いでいる気配を感じた」という。
「遠方の講演会にも出かけ、母校の同窓会にも無理して出席していた。今のうちにやれることをやろうとしていたように感じました」
その年の11月には夫人を同行して中国、上海で開催されたアニメーションのフェスティバルに出席する。手塚さんは初めて中国を訪ねた夫人のために北京にも足を伸ばし、自らは病院で点滴を受け続けていたという。しかしそんな無理がたたってか成田空港に帰りつくと、その足で病院に直行する。
「頬がげっそりとこけ、見るからにつらそうな状態だった」と松谷さんは言う。
もっとも病院に運ばれた後も、手塚さんは作品を描き続け、作家としての仕事を続けることに執念を持ち続けていた。
医師でもあった手塚さんは、自らの病状を察知していたに違いない。しかし、その一方で手塚さんは仕事への意欲、生きる意欲を失っていなかった。
最後まで生きる希望を
著名人に新年の抱負を聞くあるテレビ番組には最後まで出演するつもりで、こけた頬を隠すために含み綿も用意していたほどだった。そのころ、結婚を予定していた眞さんが入籍の相談を持ちかけると、「退院して自分がすべてを段取りするから、ちょっと待ってほしい」と言われたという。
「頼むから仕事をさせてくれ」
──ほとんど意識のない手塚さんから、最後に松谷さんが聞いた言葉だった。その1週間ほど後の2月9日、その人生の幕を閉じる。連載漫画3本、放送予定のアニメーション3本を抱えた人生の途上での死だった。それは1つのことをきわめた理想的な生き方、死に方でもあった。
それから23 年──。手塚さんの仕事部屋は今も、生前と同じ状態で残されている。多くの読者、漫画家を優しく包み込む生前とはまた違う穏やかな磁力を放ちながら──。
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