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元・笑点の名司会者が、がんを抱えながら大事に育てたもの 落語一途、人情を残して星になった──。5代目三遊亭圓楽さん(落語家)享年76
病のなかで再起に賭ける
その圓楽さんを今度は病魔という不運が襲う。最初に訪れたのは腎臓病だった。以前から患っていた腎不全が99年に悪化、以来、圓楽さんは週に3日、人工透析を受ける身となる。さらに05年には最初の脳梗塞の発作に見舞われる。もっとも、このときの発作は軽微なものだった。
「心配して病院に駆けつけたときの第1声が『歌さん、タバコ持ってない』という問いかけだった。後遺症もないし、様子も以前と変わらなかった。それで当時持っていたピースをひと箱、置いてきたんです」
と、歌丸さんは振り返る。
しかし、その少し後から圓楽さんの健康状態は悪化をたどる。再度の脳梗塞を起こしたのち、その影響からか人の名前が思い出しにくくなり、歯の調子も悪くなり、噺にもどかしさがつきまとい始めた。たまりかねて翌06年には、23 年間、続けた「笑点」を勇退、仕事を抑えて療養生活に入る。
もっとも落語にかける意気込みは衰えていなかった。翌年の07年2月、圓楽さんは本格復帰を表明し、東京、永田町の国立演芸場で「芝浜」をかけ復帰公演を行う。「芝浜」は漁師の主人公が拾った大金を妻が隠し続け、夫の自堕落を更生し、大成させるという、圓楽さん十八番の人情噺の1つである。圓楽さんの噺に傍らで耳を傾けていた王楽さんは語る。
「もちろん全盛期のような艶や張りに満ちているというわけにはいきません。でもまったくよどみもないし、まだまだやれると感じました」
しかし、圓楽さんは自らの噺に納得しなかった。高座を降りた圓楽さんはその場で復帰断念、引退を表明する。
「師匠は何ごとについても、しっかり計算して行動する人です。今思うと、あのときの引退表明は、私たち弟子に対する切実な訴えだったと思えて仕方ない。俺がいなくなった後のことを真剣に考えろ、と私たちに問いかけていたのではないでしょうか」
こうして圓楽さんは一切の仕事から手を引き、自宅での穏やかな隠居生活に入る。そのころの圓楽さんの暮らしぶりについて、王楽さんはこんなふうに話してくれた。
「用件がなくてもたまに師匠の宅に顔を出すようにしていました。師匠は大きな椅子に腰かけて、私はその隣で正座して映画や師匠が好きな囲碁のテレビ番組を見ていたものです。すると必ず師匠は番組に茶々を入れる。こんないい方をすると叱られるかもしれないけれど、口やかましい祖父と孫が一緒にのんびりとテレビを楽しんでいるという風でした」
そのころにはかつて圓楽さんのマネジャーを務めていた長男にも子供が誕生し、圓楽さんは文字通り好々爺の如く、日々を楽しんでいたという。もっともそんな穏やかな時間は長くは続かなかった。引退を表明したその年に、今度は圓楽さんを胃がんが襲うことになる。
「歌さん、後は頼んだよ」
その年の11月、���楽さんは慶應大学病院で胃がんの切除手術を受ける。しかし、早くも次の年にはがんが肺に転移し、さらにその翌年にはそのがんが再々発する。
しかし、そんな過酷な状況の中でも、圓楽さんはしっかりと落語界の将来を見据えていた。そのころ、弟子の襲名披露の後、挨拶かたがた、自宅で静養している圓楽さんを訪ねた歌丸さんは、帰り際にさりげなく「歌さん、後は頼んだよ」と言われたことを覚えている。
「笑点のことなのか、お弟子さんたちのことなのか、落語界全体のことなのか。あたしには圓楽さんが何をいいたいのか、すぐわかった。それでウンとうなずいて帰ってきたんです」

圓楽さんの最後の直弟子、王楽さんは09年の10月に二つ目から真打に昇進している。その昇進披露の際に配布する口上書きについて、圓楽さんから指示を受けていた。口上書きというのは一種の推薦文で、師匠と関係者1人に依頼することが多い。しかし圓楽さんは、王楽さんの将来を考えて、「多くの人にお願いしなさい」と言っていたという。その言葉に従って、王楽さんは在京の落語家はもちろん、関西を拠点にする桂三枝さんや笑福亭鶴瓶さんにも口上を依頼していた。
製本されたその口上書きを持参して、自宅を訪ねると、圓楽さんは上機嫌で、「うん、これでよし」と頷いた。それが圓楽さんと王楽さんの最後の言葉のやりとりだった。
それから間もなく、圓楽さんは王楽さんの真打昇進を見届けた後に、意識不明の状態に陥った。
それからも王楽さんは毎日のように圓楽さんを見舞い続けた。そんなある日、両親とともに圓楽さんが眠る長男宅を訪ねると、玄関先で父親の好楽さんの携帯電話のベルが鳴った。王楽さんが目を向けると、好楽さんは長男宅の玄関先に立ち尽くし声を上げて涙にくれていた。それが、王楽さんが圓楽さんの死を知った瞬間だった。
最後の噺を弟子に遺して
真打昇進から2年、王楽さんは落語家として迷いを感じると、師匠の噺を録音したテープを聞き直すという。
「師匠の噺には圓楽という人物の人間性が満ち満ちています。どこまで近づけるかはわからない。でも師匠のように人間を伝えられる大きな噺家になれればと思っています」
5代目圓楽という名の落語界の巨木は倒れた。しかし、その跡には今はまだ、ささやかかもしれないが、若い新たな芽が確実に息吹き始めている──。
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