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夫を愛し、家族を愛し、日々の暮らしを愛して思いを詠み続けた 息をするように歌を詠み、歌で愛を貫いた──。河野裕子さん(歌人)享年64
隠しごとをしていると言葉が濁ってしまう
河野さんの左乳房に卵の大きさほどのしこりが見つかったのは00年9月のことである。京大病院の乳腺外科外来で検査を受けると悪性であることが判明する。すぐに同じ病院で手術、放射線治療も併用する。
がんの怖さとともに手術で乳房を失うことを恐れた河野さんは当時、こんな歌を作っている。
「わたしよりわたしの乳房をかなしみてかなしみゐる人が二階を歩く」
もちろん河野さんのがんによって永田さんも痛烈なダメージを受けている。がんの診断が下った日、診察後に病院の前で永田さんと合流した河野さんはこんな短歌を残している。

「何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない」
その日、永田さんは河野さんをそのまま1人で帰した。妻のがんによる自らのダメージを気づかれまいと、永田さんは気が気ではなかった。
「妻が頼りきっている私までがオロオロしては、家庭が立ち行かない。大げさに騒ぎ立てないように振舞っていたのです」
と、当時の心境について永田さんは後に語っている。
永田さんは当初、河野さんのがん罹患の公表をためらっていた。しかし河野さんは「隠しごとをしていると言葉が濁ってしまう」とがんの歌を詠んだ。それはあるいは病気を真っ向から受け止めようという河野さんの決意表明だったかもしれない。そうして河野さんは、病をも題材にして、歌作りに取り組み続ける。
もっともがんとの闘いは容易ではなかった。乳房温存手術で乳房は残ったものの、術後の後遺症で河野さんは絶えず左半身の麻痺に悩まされる。そこに再発の不安が重なってのことだろうか。河野さんは、時として精神的に荒れることもあったという。
「母はただ一緒に泣いて欲しかったのかもしれません」
と、紅さんは振り返る。
河野さん自身も、
「切って終わると思っていたら、がんは切ったときから本当の病気が始まった」と、語っていたという。
とことんまで生き抜く

再発が判明したのは、過酷��時期を乗り越え、乳がん治癒の目安となる術後10年という目標が見え始めた術後8年目のことだった。肝臓など3カ所への転移。河野さんは、自らの死を見つめながらも強く生を希求する。そのころに河野さんはこんな歌を詠んでいる。「生きてゆくとことんまでを生き抜いてそれから先は君に任せる」
河野さんは、その後約2年の月日を生き抜いた。
しかし、日々を重ねるごとに不安や恐れは募る。永田さんはそれまでの虚勢を捨て、河野さんと一緒に、あるいは河野さん以上に共に居られる時間の短さを嘆き、詠うようになった。
歌人で友人の池田さんは、角川『短歌』10年5月号で、自分の名前が詠われている河野さんの短歌を見つけた。
「そんなこと言うたらあかん裕子さん池田はるみなら言ひくれるだらうだから電話はしない」
当時の河野さんの心理状態がうかがえるような短歌だ。この歌を見た池田さんはすぐに、「電話などついに来たらず来なくともいいのよ呼んでゐるのが分かる」という返歌を送っている。
最後の吐息まで、歌をそうして10年7月──。

抗がん剤の効果に限界が訪れたことから、治療を京都市岩倉の自宅での在宅看護に切り換えた。それからは歩行、原稿書きなど、それまで当たり前にやっていたことが困難になり、食事が喉を通らなくなる。草花の咲く庭を一望できる寝室に横たわり、河野さんは歌を詠みつづけた。永田さんによると、河野さんは亡くなる直前の1カ月で200首近い歌を詠んだ。手帳、ティッシュペーパーの箱、薬袋……。手近のものに弱い筆圧で無数の言葉を書き連ね、鉛筆を握れなくなると、傍らで寄り添う家族に言葉を投げかけた。
8月10日。河野さんは家族のために別れを告げる。紅さんはそのとき、幼いころのように優しく頭を撫でられ、「お守り」になるような言葉を言ってもらったという。
「それまでずっと我慢してきましたが、最後の最後で母の前で一緒に泣くことができた。そのことでそれまでの胸のつかえがおりた気がします」
その翌日にも河野さんは歌を作った。
「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」
これが河野さんの最期の歌となった。そして翌12日、河野さんは息を引き取った。
河野さんの死後、永田さんたちは日々の暮らしの中で河野さんを思い起こし続けている。淳さんは好天の日、1人部屋にいると、河野さんの「青空が怖い……」という歌の意味を実感するようになった。永田さんは最近、歌風が河野さんに似てきたと淳さんから指摘されている。
「母の死は悲しい。しかし歌があるから寂しくはありません」
と淳さんはいう。
歌人は逝った。しかし歌は残った。その歌に河野さんの息遣いを感じ、その歌に託された思いは家族の間で、そして短歌を作る多くの人の間でいつまでも噛みしめられ続ける──。
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