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日本プロ野球を深く愛し、そして球界から強く愛された「親分」のあっぱれ野球人生 人生を懸けてボールを追い、最期の瞬間までボールを見つめ続けた──。大沢啓二さん(元プロ野球監督・野球解説者)享年78
弱者に欠かさない温かな心配り
大沢さんはその後、監督を退き、日本ハム球団の常務取締役に就任するが、チームがピンチになる度に、ユニフォームをまとって現場に復帰した。96年まで都合3度にわたる監督時代には、数々の武勇伝を残している。
監督時代の退場回数は7回。審判への悪口雑言は日常茶飯事。あるときには危険球まがいのボールを投げ続ける相手チームの投手に「今度やったら殴り倒すぞ」と威嚇し、実際にパンチをお見舞いしたこともあった。また、ふがいない投球を続ける自チームのエースにマウンド上で、「しっかりせんか」と蹴りを入れたこともある。
優勝の翌82年のプレーオフでは、負傷しているはずのエースを登板させ、相手チームを煙に巻いたこともあった。また当時、球界の盟主を自認していたジャイアンツに対する歯に衣着せぬ発言も、何度となくマスコミの話題になった。そうして96年、チームが最下位に沈んだ年にはグラウンドで土下座して、ファンに陳謝して大沢さんは球場を去った。
もっとも大沢さんは、そうした派手なエピソードからはうかがい知れない細やかな目配りのできる人物でもあった。大沢さんの監督時代、ファイターズの2軍球場はすぐわきを線路が通っており、電車が通過すると光が反射してボールが見えなくなるために、電車の音が聞こえると審判がタイムを出すという最悪の環境下にあった。当然ながら、こんな状況では充分な選手育成など望むべくもない。そこで常務取締役時代の大沢さんは、大社オーナーに直談判し、千葉県鎌ヶ谷市で大規模な選手育成施設の建設に取り組んでいるのだ。
「2軍に埋もれている選手のために親分は1軒1軒、地主宅を回り、土地買収を進めていった。現在、日本ハムの2軍施設であるファイターズタウンは専任のトレーナーや栄養士まで在籍する世界でもトップクラスの育成施設といっていいでしょう。実際この施設が完成してから日本ハムはどんどん強くなっていったのです」(久保さん)
こうした大沢さんの弱者への心配りは終生、変わることがなかったという。
「講演に出かけると相手先の職員に必ず、『世話をかけたな』と労をねぎらい、宴会では自分から1番遠い席にいる若手に声をかける。後にコーチや監督に就いていないプロ野球ОBを集めたマスターズリーグ発足に一役買ったのも同じでしょう。強者には牙を剥くが、弱者や光が当てられていない者には必ず救いの手を差し伸べていました」
と、西原さんはいう。
大沢さんは反骨の人であり、また弱者の目線でものを見ることのできる人物でもあった。99年からスタートした「サンデーモーニング」の「週刊御意見番」���コーナーが絶大な人気を集めたのも、こんな大沢さんの人柄が支持された結果かもしれない。
きれいに死ぬのも男の仕事
その大沢さんにがんが見つかったのが09年10月のこと。人一倍、健康に気遣う大沢さんは、それまでも年2回人間ドックを受診していた。それがいきなり「胆嚢がん」の診断を下されたのだから、ショックはさぞ大きかったに違いない。
しかし気配りの人、大沢さんはごく親しい2、3人を除いて誰にもがん罹患を告げることはなかった。
その1人、久保さんはたった1度だけ、手術を受けようかどうか迷っていると相談を受けたことがあるという。
結局、大沢さんは手術やそれ以外の治療を行わず、穏やかにがんと共存する道を選択する。そうしてがんが見つかった後も、大沢さんはそれまでと何ら変わることなく、トレードマークの和服姿でテレビ出演し、講演のために地方を飛び回り、プロ野球のために働き続けた。
しかし、翌10年の夏ごろから急激に体調が悪化する。その年の8月、大沢さんの自宅を訪ねた西原さんは、やせ細った大沢さんの姿にショックを受けた。
「1日1食。それも鉄火巻をほんの2、3個、口に入れるともう食欲がなくなるという。もっとも手土産に買ってきた好物のエクレアを差し出すと、『これはうめえ』とパクパク食べていた。顔色は悪くなかったし、それでこれなら大丈夫だろうと、胸を撫で下ろしていたのですが……」
それが、多いときには毎週のように酒を酌み交わしていた大沢さんと西原さんの最後のやりとりだった。
最期の瞬間まで、掌に

その1カ月後、愛犬の散歩に出ようとした大沢さんは足元のふらつきを覚え、そのまま病院に直行する。それが大沢さんの最後の入院だった。もっとも毎日見舞いに訪れていた久保さんは、入院直後はファイターズや自らが出演していたテレビ番組のことを気にかけていたという。しかし10月に入ると容態が悪化、酸素マスクが装着される。「きれいに死ぬのも男の仕事」といっていた大沢さんは、久保さんと「マスクを外せ」「ダメです」とやりあい続けたという。
そうして10月6日、最期の夜が訪れた。自らの死期を悟っていたのだろう。大沢さんは傍らにいる久保さんに「ボールを、ボールを……」と訴え続けた。久保さんは大沢さんの最後の願いを叶えるためにタクシーで東京中を駆け回り、かつてのプロ野球仲間から硬球を借り受けてきたという。そして、翌朝未明、そのボールを握り締めながら大沢さんは旅立っていった。
「自らの人生に満足していたのでしょう。ボールを握り締めながら勝利監督のような表情で死を迎えていました」
と、久保さんはいう。
それは「親分」の名に恥じることなくプロ野球やプロ野球人のために、そして何より何千万というプロ野球ファンのために働き続けた男にふさわしい死に様だった。もし野球の神様がいるのなら「あっぱれ」と裁定を下しているに違いない。
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