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撮影所に生きた、映画人の最期のワンシーン 命を懸けた最後のテイクは、次世代に伝える映画の魂だった――。深作欣二さん(映画監督)享年72
手術を拒否。闘争本能を持ち続けたい
94年に公開された「忠臣蔵外伝 四谷怪談」の撮影終了後、体調が優れない日々が続いた。最寄りの病院を訪ねて「胆石ではないか」との診断を受け、検査を受けたところ前立腺がんであることがわかった。そのときにはすでにがんは周辺のリンパ節にも達していたという。
公的には深作さんはその2年後、がんの切除手術を受けたことになっている。しかし、実際は違っていたと健太さんはいう。
「僕たちにも手術を受けたといっていた。しかし、本当は受けていなかった。オヤジは前立腺を切除することで、持ち前の闘争本能が衰えることを懸念していたのです」
その後の深作さんは、以前にも増して過激に仕事に取り組むようになる。たとえば前出の小林さんが作家の辺見庸さんを紹介したのがきっかけで手がけたテレビドキュメント、「もの喰う人々」(辺見庸原作)では、はるばるチェルノブイリまで足を運び、逡巡する俳優の石橋蓮司さんを尻目に、放射線で汚染された大地でとれたキノコのマリネを「がんにすでにかかっているから、怖いものなんかない」と、冗談を飛ばしながら何のためらいもなく食してもいる。
同時に作品のトーンにも微妙な変化が現れていたと健太さんはいう。
「がんが見つかってから、死生観がより強く前面に現れるようになりました。おそらくオヤジのなかでは、がんになったときから人生のカウントダウンが始まっていたのでしょう」
実際に精力的に仕事に取り組むなかでがんは進行を続け、99年末には骨転移が発覚する。深作さんがある意味、全作品の中でも最も過激な、中学生たちの戦いを描いた「バトル・ロワイアル」の制作に取りかかったのもそんなころだった。
遺作、それが映画作りの原点だった

「僕が将来の監督作品の候補として読んでいたこの小説がたまたまオヤジの目に入ったのが制作を始めるきっかけでした。内容がオヤジ自身の青春像に重なったのでしょう。そしてそれがオヤジの原点だった。オヤジはこの作品を通して、10代の若者たちに映画の何たるかを伝えようとしていた。この作品を自分の遺言状にしようと考えていたんだと思います」
疼く骨の痛みを抱えながら、撮影所の傍らにはベッドが置かれ、痛みや体の不調を感じながらも、騙し騙し撮影を行っていたという。
もっとも深作さんは、その後も、モルヒネの痛み止めを使いながら病身を押して次作「バトル・ロワイアルⅡ〔鎮魂歌〕」へと向かっていった。健太さんはそこに自身への配慮を感じずにはいられないという。
「もちろんオヤジが無類の映画好きだったこともある。でもそれ以上に、オヤジはこの作品を通して、自らの仕事を僕たち若いスタッフ・キャストに後を託そうと考えていたように思えてならないのです。そのために、自らを奮い立たせてお膳立てを整えてくれていたのかもしれません」
最後のリハーサル終了後、健太さんは深作さんと「きつい仕事になるぞ」「オレも一緒に撮るから大丈夫だ」というやり取りを交わしている。そしてそれが父子の最後の会話となった。
健太さんは5歳の年から父親の仕事場である撮影所に足繁く通い、自宅にいるときとは別人のように生き生きとした父親を眼のあたりにして、自分も将来は映画作りをと決めていた。最後の作品への着手は、そんな健太さんの背中を押すこととなった。そしてそれに応えるように、作品のサブタイトルには〔鎮魂歌〕という言葉が添えられた。
映画のワンシーンのような臨終の場
撮影所から緊急入院した深作さんの容態は一進一退をくり返しながらも徐々に悪化を続けていった。そうして03年1月12日、深作さんは妻の早苗さんと健太さんに手をとられ、多くのスタッフに見守られながら永い眠りにつく。72年の幸福な人生だった。
奇しくもその直前には、同時代をともに生き共に闘ってきた菅原文太さんが見舞いに駆けつけ戦友の最期に立ち会った。病室に詰めていた小林さんは、菅原さんが「サクさん、サクさん」と深作さんを呼びかける姿に「まるで映画の1シーンを見ているよう」に感じたという。
もっとも健太さんには感傷に浸る余裕はなかった。父親の遺骨をポケットにおさめて、「バトル・ロワイアルⅡ〔鎮魂歌〕」の制作に奔走した。
「脚本も未完成だったし、状況は過酷そのものだった。しかし尊敬する監督と並んでクレジットが打たれるのだから気は抜けない。無我夢中でメガホンを握り続けていました」
健太さんはその後、ゆったりと2年ほどの歳月をかけて父親の不在を現実として、受け止められるようになったという。
繋がれた新しい命

深作さんの没後8年あまり。健太さんは着実に映画監督としての道程を歩み続ける。
「僕は若いけれど、実は古いタイプの映画監督です。オヤジと同じようにスタッフの先頭に立って、大声を張り上げながら、楽しんで映画を作りたい。もちろんオヤジと同じことをやろうとは思わない。ただオヤジが戦後の若者像を追い続けたように、僕も10代にこだわり続けたいと思っています」
深作さんの映画人魂は健太さんのなかでしっかりと息づいている。深作さんの最後の願いは実現された。あるいは深作さんにとっては、たすきを渡せたそのことこそが映画人としての人生で最大の幸福だったかもしれない──。
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