ジャイアンツの申し子と呼ばれた男の生き様 人生の9回裏、彼の手は仲間にしっかりと握られた――。土井正三さん(元読売ジャイアンツ選手)享年67

取材・文:常蔭純一
発行:2011年8月
更新:2018年10月

突然現れた体の不調

2007年2月、土井さんはプロ野球評論家として、宮崎、沖縄のキャンプを訪ねている。異変が現れたのは、そのキャンプめぐりを終えた後だった。

「疲れが抜けない、体が変だと訴えたんです。尿が土色をしているというのです」

と、宣子さんは振り返る。

慌ててかかりつけの病院を訪ねると、医師から思いもかけない診断が下された。3期の膵がん。医師からの告知にショックを受けたのは、土井さんよりも宣子さんのほうだった。膵がんの予後の悪さを伝え聞いていた宣子さんは「そうか、がんか」とおっとり構える土井さんの隣で卒倒寸前の状態だった。その後、別の病院に膵がんの名医を訪ね、「大丈夫、助けられる」といわれたときは、天にも昇る思いだったと宣子さんはいう。

しかし、現実は過酷だった。その病院での再検査で、病状は4期に至っていることが判明する。ただ遠隔部位への転移がなかったことから、切除手術は可能だった。「ファイトに満ちた父の生き方を考えると手術が妥当だと思った」と、最終的な判断を下したのは、医師として働く長男だった。

そうしてがん発覚から2週間も経たない、2007年の3月、手術が実施された。現役時代の痩身とはうらはらに、腹部が厚い脂肪で覆われていたこともあり手術は難渋をきわめ、12時間にも及んだという。しかし手術は無事に成功。土井さんは末期の膵がんであったにもかかわらず、底力を見せ、その後2年半の余命をまっとうする。

病床で知った、野球仲間の思い

その手術により、土井さんは一命はとりとめたものの、野球はおろか、好きなゴルフもできない状態に陥った。しかし病床にあって、逆に土井さんの心境は穏やかだったかもしれない。それは、それまで角突き合わせてきた人たちとの和解の季節でもあった。

病の知らせを聞き、真っ先に病院に駆けつけ、その後も足繁く土井さんを見舞い続けた黒江さんは、土井さんは何よりも現役時代に幾度となく衝突してきた川上さんからの手紙に感激していたという。

「川上さんは『あのファイトで病気に立ち向かえ』と正ちゃんに言っていた。監督はきちんとオレを見ていてくれたと正ちゃんは涙ながらに話していました。手紙を見せられた僕までもらい泣きせざるを得なかったほどです」

さらにオリックス監督時代に、距離を置いていたオーナーからは、「素晴らしいチームの土台を作ってくれてありがとう」とねぎらわれ、イチローからも花束が届けられた。もちろん冒頭で紹介した「V9戦士勢揃い」への出席も大きな励みになった。そうしたなかで土井さんは宣子さんに励まされながら懸命にリハビリを続け、09年2月には、次女の結婚式で車椅子でバージンロードを歩く。人生の最期の一幕で、土井さんは様々な意味で1人の人間としての歓びを噛みしめたのかもしれない。

野球人生を支え続けた妻・宣子さん

土井正三さんの野球人生を支え続けた妻・宣子さん

それから半年後、感染症による肺炎で土井さんは帰らぬ人となる。宣子さんは結婚後、初めて夫へラブレターをしたため、棺に納めた。それは「生まれ変わっても一緒になろう」といい続け、野球と家族をこよなく愛した土井さんへの返答だった。

2009年9月29日に行われた葬儀では、足の悪い川上さんは車いすで駆けつけ、弔辞を読み上げた。

「君はジャイアンツ野球の申し子だった。君なくしてV9は成しえなかったと思う……」

それは、わき目も振らず純粋に白球を追い続けた野球人にとって、そして野球を通して人との思いを分かち合うことの素晴らしさを知った1人の人間にとって、何にも代え難いねぎらいの言葉だったに違いない──。


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