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迫りくる死と闘いながら、彼女は最後まで舞台に立ち続けた 命の限りがわかったとき、最も輝ける場所がわかった――。深浦加奈子さん(女優)享年48
最後の演じる場は舞台で
04年、山内さんと出会ったことを契機に、テレビから演劇へと大きく軸足の方向を転換し始めたのだ。
「僕自身も長い脚本を書きたいと思っていたし、深浦さんももっと自分を活かせる活動の場を求めていた。今思うと、新たな可能性を模索する僕と深浦さんの思いが一致したということかもしれません」
と山内さんは当時を振り返る。
初めての山内さんの演劇への出演は、その年の4月に上演された「葡萄と密会」だった。初めて稽古を共にしたときの印象を山内さんは今も忘れていない。
「長いキャリアを持つ女優だから何の不安もありませんでした。
しかし、実際に演じてもらうと、予想をはるかに上回る実力の持ち主であることがすぐにわかりました。自然でしかも感情を細やかに表現できる演技力、脚本を自分で解釈できる明晰さ、また普通に話していても、伸びやかによく通る声も魅力だった。僕は第三エロチカのころの深浦さんを観ていない。しかし、どんなお芝居だったかは想像できる。その時代とはまた異なる、成熟した女優の技量に、ただただ圧倒されました」
その後、深浦さんはそれまで所属していた事務所を辞し、05年の「乞食と貴婦人」、07年の「若い夫のすてきな微笑み」と山内さんの演劇への出演を最優先させる。山内さんが深浦さんについて、「覚悟」を決めていると感じたのも、そうした行動を目の当たりにしてのことだ。
母親の京子さんは深浦さんの方向転換はある意味で必然性をともなっていたと語る。
「決して口に出すことはなかったけれど、最初にがんが見つかったときに、加奈子はすでに自らの命が長くないことを悟っていました。そして限られた人生を精一杯生きようと、自分にもっともふさわしい場を求めていた。それが演劇ということだったのでしょう」
京子さんは前述の舞台「若い夫の……」の最後のシーンで、舞台に1人残った深浦さんが観客に「ハッピーエンドよね」と語りかけた一言が、彼女自身の人生をも象徴しているようで、今も耳から離れないという。


最期まで女優であり通した
「若い夫の┅┅」の公演は4月だった。そのための稽古は1カ月間。深浦さんは抗がん剤治療中で、副作用による吐き気や倦怠感に耐えながらも、稽古に励んだ。髪も抜けた。
本番が近付いたころ、深浦さんは抗がん剤治療を一時的に休ませてもらうよう医師に頼んだ。黒いスプレーで、脱毛でむき出しになった地肌を染めた。
そして本番に臨んだ。
「舞台は実に上出来でした。薬を休んで体力が回復したこともあったようですが、深浦さんは苦しみ貫いた様子はまったく見せない素晴らしい演技で公演を完遂したんです」(山内さん)
しかしその年の12月、胸の中心部の縦隔大動脈のリンパ節に小さながんが見つかった。翌年には、両肺への転移が明らかになる。転移に対応するために新しい薬による治療が行われたが、効果は得られなかった。
次の年2月、最後の舞台となる「新しい橋」という山内さんの演劇に出演後、深浦さんは自宅での本格的な療養生活に入り、免疫療法やさまざまな民間療法を試みる。しかし容態は悪化の一途を辿った。吐き気、倦怠感、そして息苦しさ。そんな状況の厳しさによるものだろう。そのころ、深浦さんは両親に、「海に撒骨してほしい」と訴えている。
山内さんは6月、1年後の同じ場所で予定されている演劇上演に備えて深浦さんとあるホールで観劇をともにした。
「頬がこけて、見るからにやつれていた。正直、これは相当、深刻な状況だと思わざるを得なかった。それでも深浦さんのことだから、また復活してくれると出演をお願いしました」
1カ月後、最悪の体調にもかかわらず、深浦さんは広島を訪問する。学生時代から関心を持っていた原爆に関する報道番組のナレーションが目的だった。それが深浦さんの最後の仕事となった。
財産は猫に、遺骨は海に──

そして8月──。症状はさらに悪化した。深浦さんは病床で財産を愛猫のニコラスに寄贈すると遺言をしたためる。同じ月の24日、京子さんは意識が半ば混濁した深浦さんの体を「きれいにしてあげるね」と清拭した。それが京子さんの最後の深浦さんへの呼びかけだった。その夜、深浦さんは帰らぬ人となる。
深浦さんの遺骨の一部は、深浦さんの希望通り、大好きだった逗子の海に撒かれた。
深浦さんの死後まもなく行われた「お別れの会」で、青春時代をともにした演出家の川村さんは、深浦さんが亡くなる前年7月の再会を振り返り、こんな弔辞を述べている。
「┅┅私の前であなたは最期まで突っ張って通したということです。それが私にとって、うれしくてなりません」
深浦さんは最期まで突っ張り通し、何より女優であり通した。それは自らの生きる意味を考え続けた1人の女性にとって、もっともふさわしい生き様であり、死に様であったに違いない。
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