ミュージシャンとして、母として彼女が貫いたロックな生き方とは 復活のときを信じて、最期まで歌い続けた――。川村カオリさん(ロックミュージシャン)享年38

取材・文:常蔭純一
撮影:酒井久美子
発行:2011年3月
更新:2018年10月

自分の人生に裏切られた

写真:ピンクリボン活動の写真

ピンクリボン活動の写真。娘のルチアちゃんと 撮影/酒井久美子

酒井さんは08年正月に自宅で催した新年会の席で川村さんから「胸に違和感がある」と聞かされている。そしてその直後の検診で川村さんの乳がんはリンパ節、骨、肺と3カ所に転移していることが判明する。

川村さんが受けたショックは初発のときよりもずっと痛烈なものだった。酒井さんは後に「1カ月泣き続けた」と聞かされている。また、あるテレビ番組では、川村さん自身が「自分の人生に裏切られたように感じた」とも話している。

もっとも初発のときと同様、川村さんはそのことをほとんど人に知らせていない。

酒井さんがそのことを知ったのもずっと後、同じ年の10月に川村さんが出演したテレビのニュース番組を見たことによる。

皮肉なことに、それは東京都のピンクリボン活動のメーンキャラクターに川村さんが選出されたことを伝えるニュースだった。乳がん患者で病気を克服して活躍する著名人として選出されたその席で、川村さんは再発を公表しているのである。「選出を辞退するかどうか、ずっと悩み続けていた。しかし自らがメッセンジャーになることの大切さを考えて受けることにしたと話していました」

と酒井さんはいう。

再発を公表してからの川村さんは、以前と変わることなく意欲的な日々を送っていた。抗がん剤治療を続けながら、神戸で開催されたピンクリボンスマイルウォークというイベントに参加、また09年の3月にはバースデーコンサートも開催する。

再発後、娘に伝えたかったこと

忠さんは再発がわかった後、川村さんの行動にある変化がみられるようになったという。

「娘との関係をいっそう大切にするようになりました。七五三の日に着物姿で写真撮影したり、僕とルチアが話す時間を作るようにしたり……。今、思うと自らの人生の足跡を娘に伝えたかったのでしょう」

同じ思いからだろう。09年の11月には、川村さんが誕生し、母親が他界したロシアへの「里帰り」も果たしている。そこで川村さん親子は母親の縁者に囲まれて温かな数日を過ごしている。おそらく川村さんは愛娘に自分たちには、2つの故郷、2つの家族があることを伝えたかったに違いない。

しかし、そうした日々のなかで病状は刻々と悪化を続けていった。川村さん自身もその日の訪れがそう遠くはないことを自覚していたのだろう。酒井さんは、川村さんがルチアちゃんに「ママがいなくなっても、ずっとルチアのそばにいるんだよ。見守っているんだよ」と話していたことを覚えている。

最期のときまで、アナスタシアを信じて

そしてがんの痛みが激しさを増し続ける中で、川村さんは「デビュー20周年記念ライブ」を開催する。酒井さんはそのライブで川村さんを痛々しい思いで見つめていたという。

「1曲歌うごとに楽屋に戻って酸素を吸入していて不安でならなかった。実際ライブの後は立っていることもできない状態だった。でも最後まで歌い通せたことに感激したのでしょう。目にうっすらと涙を浮かべていたことが印象的でした」

酒井さんはこのライブでファンのため、愛娘のために、持てるエネルギーすべてを使い切ったのではないかという。

このライブの数日後、容態が悪化した川村さんは再び入院を余儀なくされる。

もっとも気力は健在だった。川村さんはその後もファンに向けてブログを配信し、酒井さんには「奇跡を起こすよ」というメールを送っている。死を覚悟しながらも、川村さんは自らのアナスタシアを信じ続けていた。

忠さんが最後に川村さんを見舞ったのは09年の7月中旬のことである。退屈だという姉のためにビデオを持参し、どうということのない世間話を交わし、「じゃ、またね」と別れた。

顔がむくみ、口調がゆったりしていたものの、それほど重篤な状態とは思わなかった。しかしその2週間後の7月28日朝、舞台の仕事に出るときに忠さんは「危篤」の知らせを受ける。駆けつけたときにはすでに川村さんは不帰の客となっていた。

川村さんの1周忌にあたる昨年7月28日、東京渋谷で追悼イベントが開催された。ビデオモニターに映し出された川村さんは「悲しくなんかないぜ、ぶっ飛ばしていくぜ」と語りかける。

つながりあった人たちの心が折れかけたとき、その言葉とともに川村さんは力強く「復活」を果たすに違いない──。


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