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亡くなる前日までナシモト・ニュースは配信された 時代を駆け抜けた元祖芸能リポーターは仕事と家族を愛し貫いた──。梨元勝さん(芸能リポーター)享年65
入院後もブログで「がんばります」


もっとも梨元さん自身は、がんが見つかった後も意気軒昂だった。
入院中でも、病院を抜け出して萩原健一さんとの対談をこなしたり、パソコンなどが揃った病室で、ラジオ、新聞、それに新たな職域として狙いを定めたネットでの情報提供のために精力的に取材を続け、ニュースは亡くなる前日まで配信された。
また6月上旬に肺がんの罹患を公表した後は、梨元さんの取材に新聞、雑誌などのメディアがひんぱんに病室を訪れるようにもなった。
かくして梨元さんの病室は活気に満ちた仕事場の様相を呈するようになる。梨元さん自身もネット上のブログやツイッターで「がんばります」と意気盛んなところを見せていた。
しかし、実際には6月中旬、第1回目の抗がん剤治療が終わったころから、梨元さんの体調は衰え続けていた。
「最初の抗がん剤治療が終わって1週間ほどすると、口内炎や味覚障害が現れました。また同じころ、転移の有無を調べる大腸検査が実施されました。下剤を飲んで食事も制限される厳しい検査で、その直後から体力が目に見えて落ち込みました」
と玲子さんはいう。
この時期に見舞いに訪れた石川さんは、病室内のトイレに杖を使ってたどりつく梨元さんの姿に言葉を失ったという。しかし梨元さんは、そんな石川さんに「退院したら足腰を鍛えなくては」と意欲を見せる。体力は衰えても気力は旺盛そのものだった。
「私は芸能リポートという仕事に限界が訪れていることを感じていた。でも梨元さんはネット配信に新しい可能性を見出そうと本気で考えていたのかもしれません」
最後に確かめ合うことができた家族の絆

愛娘の麻里奈さんはこの時期に、父親の仕事の代役を引き受けたことが今も心に残っているという。
「父はずっと前から私に芸能リポーターを継いでくれと言っていました。そのこともあるのでしょう。私に、地方局のTVレギュラー番組や、ラジオの電話出演の代役を引き受けさせたのです。私自身もそれまでは、あまり家にいなかった父に距離を感じていましたが、父を助けたいと願っていたか���、ためらうことなく引き受けました。ダメ出しするところもあっただろうに、完璧だとほめてくれたことが忘れられません」
この麻里奈さんの言葉からもわかるように、梨元さんの入院生活は奥さんや麻里奈さんとの絆を深め、固めるかけがえのない日々でもあった。容態が悪化した7月中旬から玲子さんは毎夜、梨元さんのベッドの傍らに置かれたソファで夜を明かし、麻里奈さんも連日、病室に足を運び続けた。
そうして夜の病室は、梨元さんが元気なときには、得られることのなかった家族水入らずの団欒の場となった。
抗がん剤治療の影響で、味覚障害が起こったときには、麻里奈さんは数10種類もの香辛料を病室に持ち込み、梨元さんがチリソースに美味を覚えることを確認する。そこで夕食時には、そのチリソースを用いた病室内でのピザパーティがひんぱんに催されたという。
傍目から見るとどうということもないささやかな家族の交歓風景。しかし、それが梨元さんやその家族にとっては無上の歓びだったに違いない。そして、その家族に梨元さんは感謝の言葉を投げかけ続けた。
「喉が渇いたというので水を運ぶと、それだけでありがとう、ありがとうとくり返す。照れ屋で昔気質だった人がこんなに素直になるものなのかと驚きました」
と、玲子さんは語る。
生と死の狭間で梨元さんは、家族の存在、ありがたさを再確認していたのかもしれない。しかし家族との濃密な時間は長くは続かなかった。
「こわい」という言葉の本当の意味
3度目の抗がん剤治療が終了してまもない8月21日の未明、ソファでまどろむ玲子さんに、梨元さんは「背中をさすってくれないか」と訴える。後ろ手に回った玲子さんに「こわいんだ」とつぶやき、さらに「ありがとね、ありがとね」とくり返した。それが梨元さんの最期の言葉だった。
その直後、眠る体勢を整えるために看護師の手を借りて体を持ち上げたとき、梨元さんは喉をつまらせたような異音を発して絶命した。猛スピードでテレビの世界を駆け抜けた梨元さんらしいあっけない人生の幕切れだった。
玲子さんが梨元さんの「こわい」という言葉の本当の意味を知るのは、それからしばらく後のことである。
「私は夫が死を恐れているのだと思っていた。でもセカンドオピニオンを受けた先生に挨拶に訪ねたとき、そうではないことがわかりました。夫は先生に、私や娘を置いて死んで行くことがこわいと訴えていたのです」
心の深い部分でいつも家族を愛し続けた人物は、死の瞬間まで自らの生き方を貫いた。それは一本気で照れ屋な、いかにも梨元さんらしい最期でもあった。
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