飽くなき好奇心を持ち続けたニュートリノ研究の第一人者 ノーベル賞最右翼だった物理学者の最後の研究は自らの闘病生活となった──。戸塚洋二さん(物理学者)享年66

取材・文●常蔭純一
発行:2012年11月
更新:2018年11月

病身で施設復旧に全力を尽くす

スーパーカミオカンデの説明をする戸塚さん

戸塚さんに大腸がんが見つかったのは2000年11月のことである。もっとも裕子さんは、そのずっと以前から戸塚さんの異変を察知していたという。

「がんが見つかる2年前から血便が出始め、体が痩せ始めた。うまく言葉にできないけれどそれまでとは雰囲気も変わっていました。本人は痔だと言っていたけれど、そんな生易しいものではない、主人の体内で重大な異変が起こっていると確信していました」

その後、大量の下血があり、体調も悪化した。とりあえず飛騨の診療所に駆け込んだところ、直径3cmの大腸がんが見つかった。

国立がん研究センターで精密検査を受けると、がんはすでに3A期にまで進んでいることが判明し、すぐに摘出手術を受ける。

それを契機にそれまで宇宙線研究所所長と、観測施設の施設長を兼任していた戸塚さんは所長職を辞任する。しかし、追い打ちをかけるようにアクシデントが見舞う。手術の1年後、スーパーカミオカンデで光電倍増管の半分以上が破損する事故が発生したのだ。

「これではニュートリノ研究も続けられないと、スタッフ全員が意気消沈していました。そのときに戸塚先生は、事故の翌日には、施設を再建すると世界に宣言し、国に再建を働きかけ、スタッフをまとめて施設を復旧し、1年後には再び研究が軌道に乗り始めた。今、思い出しても見事なリーダーシップでした」(梶田さん)

もっとも、そのときの心身の疲労が災いしたのかもしれない。戸塚さんのがんは悪化に向かい、術後4年目の2004年には左肺に転移が見つかり再手術。

さらに、その翌年には右肺に10個を上回る転移がんが発見され、抗がん剤治療を余儀なくされる。そのときには抗がん剤治療を行って余命19カ月と伝えられていた。

しかし、ここにいたっても戸塚さんの研究者魂は衰えることを知らなかった。抗がん剤治療を始めて1年あまりが経過した頃から、戸塚さんは自らの病気や治療について客観的な目で観察、考察を続け、その内容をブログに掲載し始めるのだ。

がんになっても未来を見つめる

戸塚さんが闘病生活を記したブログ http://fewmonths.exblog.jp/戸塚さんが闘病生活を記したブログ
http://fewmonths.exblog.jp/

「A Few More Mont hs」(さらにあと数カ月)と題された戸塚さんのブログの第1回目が発表されたのは2007年8月4日のことである。

その2日後から戸塚さんは、自身の容態や治療についても詳細な報告を開始、さらに腫瘍マーカーやCT画像による腫瘍のサイズ変化もグラフ化してブログで紹介する。

「(前略)今日は化学療法の治療を受ける日です。(中略)私はもっと厳しい副作用として、脱水症状、細菌性肺炎、イレウス(腸閉塞)、間質性肺炎というグレード4の副作用を潜り抜けてきました。抗がん剤をあまり頑張り過ぎるのもよくありません。今度グレード4の副作用にあったらたぶん乗り越えられないでしょう(後略)」(8月6日)

「(前略)腫瘍サイズの計測は、原始的ですが、腫瘍の写っている画像をA4の紙にプリントアウトして定規で測ります。測定の誤差は20%以下くらいでしょうか。小さい腫瘍には1mmくらいの誤差が付きます。腫瘍サイズを何㎝という絶対値で測ることは難しいので、変化のない部分、脊髄の中心と肋骨前部との間隔を基準にして、相対値を出します」

もちろん、自らの容態も冷徹な視点で捉えられている。たとえば一時退院の後に腸閉塞に陥って入院したときにはこんな記述が見受けられる。

「吐瀉物や排泄物を観察するとホウレンソウの葉やキノコがそのまま放出されていました。食事時に噛んでいないことがわかります。また胃での消化がほとんど機能していないことも確かです(後略)」

他にも科学、教育、宗教とブログの内容は広範な分野に及んでいる。それはがんになっても戸塚さんの好奇心がまったく衰えていなかったことの証左でもある。そのことをよく物語っているのが翌2008年、がんが脳に転移したため、ガンマナイフ治療を受けたときの逸話だ。

「ガンマナイフ治療を受けるときには、眼鏡を外すことが慣わしとなっています。でも主人は眼鏡をかけたまま治療を受けたいといって聞きませんでした。ガンマナイフの内部構造をしっかり自分の目で確かめたいというのです」(裕子さん)

申し出は受け入れられ、戸塚さんは治療後、「いい勉強になった」と、裕子さんに繰り返していたという。

後に続くがん患者のために

もっとも、その頃には、化学療法も限界に達していた。戸塚さんは最後の藁をつかもうとペプチドワクチンの臨床試験にエントリーを試みたものの、適用外の判断が下され、戸塚さんは治療の術をなくす。だが、それでも戸塚さんは自らの生の可能性を信じていた。同時期に戸塚さんを訪ねた梶田さんは、「車椅子なら大丈夫だから、また、神岡に行こう」と誘われたことを覚えている。

しかしその1カ月後、前を向き続けた戸塚さんの命脈にも限界が訪れる。7月2日体調不良で入院した戸塚さんは、そのまま7月10日に帰らぬ人となる。それは終生、少年の心を持ち続けた科学者の最期だった。

戸塚さんの死後1年――。裕子さんは、がん患者のための帽子づくりのボランティアチームを立ち上げている。

「主人が亡くなる少し前に、『人の役に立って生きられればいいね』と言っていた。亡くなってからも主人との会話が続いているような気もします」

後に続く者のために自らのがんについて報告を続けた戸塚さんの優しさは、形を変えて裕子さんに引き継がれている――。

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