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人間は死ぬ瞬間まで生きています 柳 美里 × 鎌田 實
多額のがん治療費を工面し 臨月の身でNYの病院へ
柳 告知を受けたときは、東は「自殺する」と言い、「あなたも一緒に死のう」と言いました。そしてすぐ、「ああダメか、あなたは赤ちゃんがいるんだ」と。そこから東の闘病が始まったわけです。最初、国立がんセンター中央病院(当時)に入院し、放射線と抗がん薬治療を受けましたが、効果がなく、ニューヨークのメモリアル・スローン・ケタリングがんセンターに転院して、*タキソールの投与を受けたんですが、これも効きませんでした。
本人は国立がんセンターで、「事実上、もう打つ手はない」と告げられたことによって、錯乱状態に陥ってしまったんです。モルヒネも睡眠薬も投与してもらっていたんですが、一睡もしないで絶叫しつづけました。ペインコントロールはできても、精神のコントロールができず、看病する私の精神状態も限界に達しつつありました。本人は「ホスピスで座して死を待つなんて耐えられない。たとえ副作用で死ぬことになっても、治療をしたい」という強い希望を持っていました。
鎌田 ニューヨークの病院は高額で大変だったでしょう。
柳 保険が利かないので大変でした。全部、借金でした。でも、東が偉かったのは、日本の劇団主宰者としては珍しく私腹を肥やさず、スタッフや役者に給料という形で分配していたことです。がんが見つかったときには正真正銘の一文無しだったんですよ。
鎌田 柳さんはそういう東さんをリスペクトしていたわけね。東さんでは借金はできないから、柳さんが借金をしたわけだ。
柳 借りられるだけ借りました。ただ、ニューヨークでの治療をスタートしたとき、私は臨月でしたから、「これから子どもが生まれて、お金がかかるのに、なぜ余命1~2カ月と言われている人にお金をかけるんだ」と、母にはずいぶん叱られました。
鎌田 私は緩和ケア病棟を担当していますが、やはり患者さんが何を望むかが一番大事です。最後まで病気と闘いたい人は闘えばいい。そのために応援するのが医師の役割です。逆に、闘いたくない人に無理やり手術をすべきではない。
柳 最後の昭和大学江東豊洲病院では、*イリノテカンを少量投与しているという事実によって、東は精神的な落ち着きを取り戻しました。息を引き取るその瞬間まで意識がはっきりしていて、話もできていたんですよ。
鎌田 彼としては、柳さんのお陰でやりたい医療が受けられ、最期は緩和ケア病棟で痛みをコントロールしてもらって、苦しまずに逝くことができたわけだ。最後の頃には、東さんが柳さんの赤ちゃんをお風呂に入れることもあったそうですね。
柳 腋の下のリンパ節に転移していたので��赤ちゃんの頭を支えるときは痛かったと思うんですが、生きている間は何か役に立ちたいと言って、沐浴を担当していました。
*タキソール=一般名パクリタキセル *イリノテカン=商品名カンプト/トポテシン
余命という言葉は好きじゃない 1分1秒が重く感じられる
鎌田 それが一番の救いだったんでしょう。赤ちゃんを抱くと、私でも生命力をいただいたような気持ちになりますから、東さんもそうだったんじゃないかな。東さんは最後まで柳美里を愛していたんだと思うよ。
柳 東と別れたとき、私から家を出て行ったんですが、彼は「あんたは絶対、戻ってくる。他の男の赤ん坊を妊娠して戻ってくる。ぼくとふたりでその赤ん坊を育てるんだ」と言っていました。
鎌田 柳さんが出ていくとき、予言したんだ。すごい男だね。
柳 鎌田さんは、恐山のイタコのところへ行って自分を棄てた実父の口寄せをしてもらった体験をお書きになられていますよね。私もこの8月にイタコに東の口寄せしてもらったんです。
鎌田 降りてきた?
柳 イタコのしゃべり口調が、「ぼく」「あんた」だったんです。実際、東は自分のことを「ぼく」、私のことを「あんた」と言ってました。それを聴いた瞬間、「アレッ!」と驚きました。「ぼくは死んだのが口惜しくて、悲しくて、三回忌までは成仏できなくて、鳥の姿になってあんたの近くに行って、あんたを見ていた……」という語り口なんです。振り返ってみると、ぽつんと一羽でいる鳥によく目がいき、「東さんかな」と思うことが多かったんです。
鎌田 イタコに会う前から、何となくそういうことを感じていたんだ。柳さんにはそういう霊的なものがある感じがするよね。
柳 私は、余命という言葉は好きではないんです。人間は死ぬ瞬間まで生きています。1~2カ月しか生きられないと宣告されると、1分1秒という時間がとにかく貴重に感じられるんです。子どもとの時間は後からでも取り返せますし、お金も原稿を書けば取り返せます。しかし、東との最後の2カ月間というのは、絶対に取り返すことのできない時間なんです。
鎌田 東さんは最後、オレが支えてやらなければという感じで、子どもを産もうとしている柳さんのところへ戻り、実際は柳さんに面倒を見てもらいながら最期を生きた。男としては幸せだったんじゃないかな。
柳 私の息子は、東の病状が急速に悪化していく中で生まれました。そして息子が生後3カ月のときに、東は亡くなりました。ちょうど笑い始めるなど表情が出てくる頃だったこともあると思うんですが、東は息子にものすごい執着心を見せたんです。せめて息子が2歳になるまで延命したい、一言でも二言でも言葉を交わして、息子の記憶に自分の存在を留めたい、と言っていました。
鎌田 東さんが亡くなったとき、柳さんはそばにいたの?
柳 いえ、ちょうど家に戻っているときでした。最期を看取った劇団の先輩の話では、東はベッド脇のテーブルに飾ってあった私の息子の写真に手を伸ばして息を引き取ったそうです。
大震災後に南相馬市に転居 生活を共にして苦楽を知る
鎌田 ところで、きょうは福島県南相馬市のイベントに参加したあと、南相馬市博物館で対談しているわけですが、柳さんは福島に初めて来られたのは?
柳 最初は、2011年4月です。
鎌田 転居してもいいと思ったのは?
柳 2012年の春頃ですね。2011年に4回、南相馬を訪れて、住んでみなくちゃわからないと思ったんです。住民の方々の苦楽が生活の中にあるとすれば、生活を共にしなければ、その苦楽もわからない。
鎌田 そこが作家の柳美里と医師の鎌田實の違いかな。私は大震災以後、ずうーっと福島、とくに南相馬に来続けており、親戚みたいにつき合っている人も大勢いますが、柳さんのように移り住んでしまおうという大胆な発想には至らなかった(笑)。
柳 私の場合、両親が朝鮮戦争のときに韓国から日本に逃れてきて以来、各地を転々としてきましたから、場所を移るということに関しては、もともと抵抗がないんです。祖父母や父母たちが海を渡ってきて、差別を受けながらも、苦労に苦労を重ねて生きてきたことを思えば、大したことではありません。
鎌田 『貧乏の神様 芥川賞作家困窮生活記』も出された。とんでもない生活(笑)。
柳 所持金が1,000円を切っても、何とかなる(笑)。お金がないことでは絶望はしない。
鎌田 お金やモノに対する執着がなくなると、生きやすくなる。きょうの「海と山の結婚式~草花をまとって自然を祝福しよう~」というイベントのキャッチフレーズは柳さんが作られたとか。きょうは柳さんの意外な一面を見せていただきました。こんなに笑う人だったのかと(笑)。
柳 私は、どちらかというとアウトドア派です。イベントに参加するのも抵抗はありません。ただ、きょう1日、イベントを愉しんだら、明日からの仕事が厳しくなる(笑)。
鎌田 きょうはお忙しい中、ありがとうございました。

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