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元気になった姿を見ていただき、患者さんの気持ちの支えになりたい 歌舞伎役者・市川團十郎 × 鎌田 實
團十郎・海老蔵親子でパリで海老蔵襲名披露

鎌田 團十郎・海老蔵の親子共演の襲名披露は150年ぶりだということで、とても楽しみにされていたんですよね。團十郎さんご自身の海老蔵襲名披露のときは、お父さまとの共演はかなわなかった。
團十郎 父は56歳で亡くなりましたから、今にして思えば若かったとつくづく思いますね。父も私の海老蔵襲名披露を一緒にやりたかっただろうなと思います。私が息子と一緒に海老蔵襲名披露ができるのは、とてもありがたいし、父にもいい報告ができるなと思っていたんです。その報告をする矢先に倒れたものですから、本当に残念で、口惜しかったですね。
鎌田 でも、10月のパリでの襲名披露公演には、退院直後でしたが、出演されましたよね。
團十郎 やらせていただきました。パリのエッフェル塔がよく見える、シャイヨー宮殿にある国立劇場でした。5月に発病し、寛解導入療法を1クール1カ月で4回やれば、大体目鼻はつくということでした。最初は公演のことなど眼中になかったんですが、治療が大変順調で、7月の検査では「もう完全に寛解状態です。このまま順調にいけば、10月に舞台復帰の可能性もあります」と言われたので、さらに治療に専念したわけです。患者の責任として、口そしてお尻からのモノの出入りに注意し、清潔に保つよう努力しました。
鎌田 感染症予防ですね。
團十郎 はい。それで順調に来たんですが、最後にちょっと油断したのか、肺炎になってしまいました。しかし私はパリ公演に執着を持っていましたから、お医者さんに「どうなんですか!」と迫りましたね(笑)。
鎌田 やりたいという思いが強く、怖いとか、自重しようとは思わなかった(笑)。
團十郎 そうですね。「どうなんですか」「どうなんですか」と確かめると、「大丈夫です」と言われましたので、最終的に9月に「じゃあ、やります!」と決断しました。
鎌田 念願の親子共演による海老蔵��名披露をパリでやったときには、もう病気は治ったと。
團十郎 これでほぼ治ったのかなと思っていました。ただ、「寛解って何だろう」って思いはありましたね(笑)。要するに、富士山みたいなものかと。火口は開いているけれども、私が生きている間には爆発しないだろうと……。
目一杯の抗がん剤で悪性細胞を完全除去
鎌田 ところが翌2005年の夏、骨髄穿刺の検査で再発がわかったわけですね。
團十郎 悪い白血病細胞が現れ、改めて治療することになりました。選択肢はいろいろありましたが、自家末梢血幹細胞移植が選択されました。この治療はその年の11月から翌年2月半ばまでかかりました。
鎌田 苦しかったでしょう。
團十郎 これは苦しかったです。私の治療法は悪い細胞が1個でもいたらダメで、完全にゼロ状態にする必要がありました。それで、私の身体に合わせて目一杯の量の抗がん剤を使いました。そのときは、ひどい船酔いをしながら世界一周しているような感覚でしたね。
鎌田 トータル・セル・キルといって、悪性細胞を全部死滅させる治療法ですね。悪性細胞が1個でも残ると、それが倍々に増えて、半年後とか1年後に再発しますからね。すべての幹細胞を死滅させようとしますから、同時に正常細胞も大きなダメージを受けるんです。苦しいですよね。頭はいつから坊主に?
團十郎 最初の寛解のときに抜けましたから、すぐに坊主にしてしまいました。
鎌田 いちばんつらかったのは、船酔い症状でしたか。
團十郎 そうですね。そして、光がこんなに刺激があるものだということに、初めて気づきましたね。相当暗くしていても、光の刺激は強いです。見ていられませんね。音もイヤです。光も音も、ものすごい刺激でした。
鎌田 團十郎さんはその頃を、「無間地獄のようだった」と振り返っていらっしゃいますが、その期間はどれくらいでしたか。
團十郎 本当につらかったのは、1週間ぐらいだったと思います。その1週間という日にちは、本当に不思議な時間でした。そして、そのどん底の状態から、1週間ごとに少しずつ良くなっていくんです。
鎌田 「もうダメだ」とか、「もうイヤだ」とか、そういうことは一切思わなかったですか。
團十郎 思う余裕もなかったような気がします。もう、ただただつらいというだけで、目も開けられないし、身の置き所がないし……。どうやったって、具合が悪いんですから。
生半可ではなかった幹細胞移植の苦しさ
鎌田 そういうときは、イライラして身近な人に当たったりするものなんですか。
團十郎 私の場合、そういうことはなかったですね。娘が付き添っていてくれて、ホームビデオを撮ったりしてくれたんですが、私はただ横になってじっとしていただけでした。2006年1月11日から抗がん剤の投与を始めて、先ほどの悪い細胞がゼロになった段階で、最初に取り出しておいた造血幹細胞を、また移植したわけですが、それがたしか1月20日頃でした。その後、ようやくなんだかんだと話せるようになったのは、2月半ばです。その間がいちばんつらかったですね。
鎌田 まるまる1カ月、イヤな状態が続いた。少しずつ良くなってくると、やはり次の芝居のことなど、前向きのことを考えるようになるんですか。
團十郎 なります。話ができるようになった頃、お医者さんに「どうでしょうか」と訊ねたら、「5月には治ります。舞台も大丈夫でしょう」と言われました。それで何をやろうか考えたんですが、歌舞伎十八番のひとつ、「外郎売」をやろうと決めました。「外郎売」には早口言葉の台詞があります。脳に抗がん剤が入ったから、ちゃんと言えるかな、と不安もありましたが、試しに言ってみるとちゃんと言えました。それで5月の復帰公演では、「外郎売」の舞台をやらせてもらいました。
鎌田 ブラッド・ブレイン・バリアー(BBB)といって、血管が脳細胞へ入るところに、脳細胞が障害を受けないようにするバリアーがあるんですね。そのバリアーを越えて白血病細胞が1個でも脳細胞に行かないように、その部分にも抗がん剤を届かせようとしたわけですから、当然苦しいわけです。よく耐えられましたね。
團十郎 それしか選択の余地がないわけですから、耐えるしかないんです(笑)。自家末梢血幹細胞移植を受ける前に詳細な説明をされ、「じゃあ、お願いします」ということですから、治療が始まったら、もう“まな板の鯉”ですよ(笑)。いずれにしても、最初の寛解導入療法と比べて、自家末梢血幹細胞移植の苦しさは生半可ではなかったですね。これは多少障害でも残るんじゃないかな、というぐらいの感じでしたから。「外郎売」の舞台で早口言葉がちゃんと言えたときは嬉しかったですね。
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