「無理しない・我慢しない・がんばらない・自然体」で行こうと思うようになりました 女優・倍賞千恵子 × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成●江口 敏
発行:2012年2月
更新:2019年7月

乳がん以降考え始めた生きる・死ぬの意味

「乳がんを経験していのちの受け止め方が変わりましたね」と話す倍賞さん

「乳がんを経験していのちの受け止め方が
変わりましたね」と話す倍賞さん

鎌田  乳がんを経験して、歌う心は変わりましたか。

倍賞  そうですねぇ。(長い沈黙の末に)意識して変わったとは思いません。年齢とともに自分が変わり、歌も変わってきた部分があるような気がしますが、自分ではよくわかりません。

鎌田  2005年に紫綬褒章を受章され、ピンクリボン活動やスター混声合唱団の活動などにも積極的に参加されている倍賞さんを見ていると、乳がんを経験したことによって生き方が変わってきたような印象を受けます。

倍賞  それは変わりましたね。自分がいろんなところへ行って、同じような体験をした人や、闘病生活をしている人たちとお話したり、相談を受けたりしていると、いのちというものの受け止め方が変わりましたね。それまでは、死ぬとか生きるということを、あまり考えなかったような気がしますが、それを考えるようになりました。ですから、歌がどう変わったかはわかりませんが、考え方や生き方が変わったことはたしかですね。

鎌田  倍賞さんは乳がん、脳動脈瘤に対して、その場その場ではハラハラ、ドキドキされたでしょうが、客観的にみると、結構上手に対応されたような感じがします。

倍賞  そうですね。邦ちゃんが乳がんと診断され、暗い顔をして私のところへ相談に来たときのような不安が、私にはなかったんです。主人がいてくれたこともあったのでしょうが、もともとウチの家系がアッカラカーなのかなぁ(笑)。なったものはしようがない、あとはどう生きるか……。

鎌田  美津子さんもそうですね。

倍賞  そう。妹もいろいろ大病して苦労していますが、元気にやっています。暗くなるより、次を考えようという感じですかね。

鎌田  倍賞さんは下町に生まれ、「下町の太陽」の歌のとおり、下町特有の明るさを持ち続けているということですね。

倍賞  先日も生まれ育った下町に取材に行ったんですが、私がその街からデビューした当時、商店街の人たちが「チコ友の会」をつくって応援してくださったことを思い出しました。もう「チコ友の会」のメンバーだった人は、数えるほどしか残っていませんが、私の母をはじめ、周りの人たちはみんな明るかったですね。玄関や縁側がいつも開いていて、食べ物を融通し合っていましたね。周りの人たちを拒むということがない世界でした。

鎌田  ぼくも同じ北区の下町の育ちですが、お味噌や醤油を貸し借りしていましたよね。長屋でした。

倍賞  屋根と屋根が重なり合っているような街でしたから、雨が降っていても、お皿を持ってお隣と行き来できましたね。共同井戸があって、みんなで順番にお掃除して、井戸にスイカを冷やして、みんなで食べました。

鎌田  そういう社会で育ったことが、芸能界でも役立った。

倍賞  そうです。だから、そういう役が多かったですね。

鎌田  そういうキャラクターだったから、病気にも負けなかった。

倍賞  そうかもしれません。

母に厳しく言われた人に迷惑を掛けるな

鎌田  手術から10年近くになりますが、心配な点はありますか。

倍賞  右脇の下の部分が、季節の変わり目などに吊るんです。傷口が両側からお互いに引っ張る感じです。大丈夫かな、大丈夫だよねって思いますね。

鎌田  傷口が吊るという話はよく聞きます。術後5年以上経てば、ほぼ大丈夫ですが、乳がんは10年を超えても再発するケースがありますから、気をつけるに越したことはありません。定期観察は?

倍賞  年に2回やっています。先生が「もういいよね」と言われますが、「いや、先生の顔を見たいから、また来ます」と言って。

鎌田  それがいいですよ。それから、歌を歌うのはいいと思います。歌の好きな人が、病気になったときや、つらいときに、歌を口ずさむのは力になるんじゃないでしょうか。

倍賞  そうかもしれないですね。私は主人によく言われます。「何かのとき、あんた、よく歌ってるね」って(笑)。クルマで移動するとき、風景を見ながら、ふっと歌が出るんですよね。心が不安になったとき、歌を歌うことはいいことかも知れませんね。

鎌田  笑うことも、泣くことも、免疫力を高めると言いますよね。倍賞さんが手術台の上で歌い、涙を流したことは、良かったと思います。

ところで、「男はつらいよ」を年に2本撮って、その間に「家族」「故郷」「幸せの黄色いハンカチ」「遙かなる山の呼び声」「駅 STATION」といった作品を撮っていたころは、とても重労働じゃなかったですか。

倍賞  そうですね。「寅さん」は途中から年に1本でしたが、あのころは、映画を撮るのが面白くて、疲れを感じなかったですね。

鎌田  現場の人たちが倍賞さんの身体を気遣ってくれたんですか。

倍賞  いえ、誰も考えてくれなかったですよ(笑)。自分で気をつけて……。

鎌田  倒れないよう、自分で意識した?

倍賞  「他人様に迷惑を掛けないように」と、童謡歌手のころから母に厳しく言われていましたから。デビュー当時、雑誌の取材で茨城へ行く仕事があったんですが、貧血がつらくって、「お母さん、行けないよー」と泣き言を言ったんです。そうしたら、母が「千恵子、あんたね、向こうにファンの人たちがいっぱい待ってるのよ。責任を持ちなさい」と言ったんです。それで無理をして行ったんですが、それがまだ頭にこびりついているんです。他人様に迷惑を掛けてはいけないと思うので、ステージで倒れるわけにはいかないのです。

私は若いころから、人から聞いた自分のためになる言葉を手帳に書き留めるようにしています。「人の振り見てわが振り直せ」とか、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」といった言葉を書いていましたね。母の言葉もそのひとつです。

長い時間をかけて福島を見守りたい

最近はもう、『がんばるのをやめよう』と思っているんです

「最近はもう、『がんばるのをやめよう』と思っているんです」と語る倍賞さん

鎌田  真面目なんだなぁ。

倍賞  責任感というのかな。でも、最近はもう、「がんばるのやめよう」と思っているんです。何年か前から、「無理しない・我慢しない・がんばらない・自然体」で行こうと思うようになりました。最近は無理をすると身体がついていかなくなった、ということもありますけれど。

鎌田  がんとの闘いは長期戦ですから、がんばり続けると、ポキッと折れてしまうことがある。がんばったり、がんばらなかったり……。ぼくは『がんばらない』という本を出していますが、『いいかげんがいい』という本も書いている(笑)。いいかげんが大事です。

倍賞  最近は何事も、ほどほどがいい、ですね。

鎌田  最後に寅さん、渥美清さんはどういう人でしたか。

倍賞  「男はつらいよ」49本のほかに5~6本、共演していますが、面白かったですね。私が出会った男性のなかで、いちば ん魅力的な人でした。とても勉強家で、生き方にムダがない。相手の立場がよくわかる、やさしい人。美しくって……。ふっと立っている姿は、笠智衆さんのような美しさがありましたね。

鎌田  「男はつらいよ」の最後の作品でしたか、寅さんが阪神大震災の被災地を訪れるシーンがありましたよね。今、寅さんが福島へ行ってくれたら、避難民の人たちは元気をもらえるのに……。

倍賞  大震災の被災地で「寅さん」の上映会があり、舞台挨拶しました。福島の場合、日本中の人たちが福島を見守り続けていくことが大事だと思います。私も時間をかけて関わりたいと思っています。

鎌田  福島の傷は深いです。長い時間をかけた応援が必要ですね。

倍賞  私、自分は福島へ行って住めます。

鎌田  日本中の人たちが、倍賞さんのような気持ちを持って、福島を思い続け、見守り続けていってほしいと思いますね。

(構成/江口敏)

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