人のために何かすることが私の生きがいであり、エネルギーのもとです 元ミス日本のプロダンサー・吉野ゆりえ × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成●江口 敏
発行:2011年4月
更新:2018年9月

いのちがけで仕事をしたら手術予定のがんが消えた

吉野 また半年後ぐらいに3回目の再発を言われました。

鎌田 3回目のときはショックだった?

吉野 こういう性格ですから(笑)、2回目の手術で開腹して、きれいに取ったから、もう出てこないのではないかと、軽く考えていました。ですから、再発したときはショックでした。それに、ブラインドダンスを立ち上げて間もない時期で、日テレの24時間テレビの日まで、1カ月ぐらいしか時間がありませんでしたから。「すぐ手術しよう」と言われたのですが、「無理!」と断りました。

鎌田 日テレは吉野さんのことをずっと追っかけていた。

吉野 というより、私がいないと24時間テレビのブラインドダンスのコーナーが成り立たなくなるのではと。ほとんどすべての指導を私が担当し、スタッフ会議にも参加していましたから。

鎌田 いちばん大事なときに、3回目の再発を言われたんだ。放っておいて、怖くなかった?

吉野 仕事を受けたからには、やるしかないと思いました。私としては、責任を投げ出してしまうほうが、生きていけない。

鎌田 やっぱり、変わってる(笑)。それで、24時間テレビが終わるまで手術はしないと。

吉野  「テレビが終わるまで、CTも何も一切しない」と先生に言いました。「腫瘍が大きくなっている」なんて言われると、かえってイヤですから。知りたくないものは、知らないほうがいいじゃないですか(笑)。

鎌田 それで24時間テレビが終わって、3回目の手術をした。

吉野 いえ、終わってから検査したら、消えていたんです(笑)。

鎌田 なんで消えたんだろう。本当に消えたのかね?

吉野 4センチの腫瘍が本当になくなっていたんです。

鎌田 やったーと思った?

吉野 まあ、にんまりという感じですかぁ(笑)。やっぱり人間の生命力のすごさというか、損得勘定抜きで、自分のいのちをかけてブラインドダンスに取り組んだ。それがよかったんだと思います。神様は見ていてくださったんだなと思いました。

鎌田 そういうことがあり得ると、そのとき信じられたんだ。

吉野 毎日摂氏40度以上の暑い体育館で練習をしましたから、温熱療法のような効果があったとか(笑)、あまりの忙しさに1カ月で7~8キロ痩せたんですが、腫瘍への栄養を断つ効果があったのかとか(笑)、他にもいろんな要因が重なり合って、腫瘍が消えたんだと���いました。

鎌田 じゃあ、3回目の手術はやらなくて済んだわけですね。しかし、これで勝ったと思っていたら、また出ちゃうんだね。

3回目の手術に当たり真面目に向き合うと決意

吉野 その1年後です。その間の1年だけは、手術しないで済みました。

鎌田 1年間出なかったのに、また再発したときはショックだったでしょう。

吉野 そのとき初めて、自分ががんであることを公表しようと思いました。母がとても心配性ですから、それまで母にも隠していたのです。しかし、事実上の3回目の手術に当たって、開腹手術で全部取り除いても、奇跡が起きて消えても、やっぱり出てくるのか、これは決してヤワな相手ではないなと、そのとき初めて思ったんです(笑)。

鎌田 それまでは悪性と言われても、何とかなると思っていた。

吉野 後腹膜平滑筋肉腫と言われても、何が何だかよくわからなかったんです。神田の医学書の専門店へ行って本を見ても、肉腫というのがよくわからない。でも、1年ぶりに再発し、事実上3回目の手術をするとき、これは真面目に向き合わないとダメだと思ったんです。

鎌田 3回目の手術のときの腫瘍の大きさは?

吉野 たしか6個でした。大きいのは7~8センチありました。

鎌田 で、4回目は?

吉野 3回目のときに、「ここにゴリゴリがあるから、取っておいてくださいね」と頼んだのに、取っておいてくれなかったんです。やっぱりそこにあったんですが、割合表面に近いところで、4回目の手術はラクでした。

腹部の大手術のあとに肺への転移が見つかる

鎌田 5回目の手術が大変だったようですね。

吉野 大変でした。うずいて痛かったので、CTで診ていただいたら、6~7センチの腫瘍が1個見つかりました。尿管と下か大静脈に絡んでいて、悪性腫瘍の先生が、「こんどは大きく開けて、ちゃんと手術するよ」と言って、おへその上まで切って、腸まで全部外に出して取ってもらいました。お腹を開けたら、6~7センチの腫瘍の横に、腸に隠れてCTに映っていなかった8センチの腫瘍もありました。結局、そのときは小さいのも含めて6カ所の腫瘍を取りました。あれから2年半になりますが、お腹には今のところありません。

鎌田 それはよかったね。じゃあ手術は5回で終わった。

吉野 いえ、次は肺に転移していたんです。その肺への転移はショックで、これでダメかと思いましたね(笑)。

鎌田 (絶句し、ひと呼吸おいて)よくこんな平気な顔でしゃべれるなぁ……。

吉野 いや、それまでは再発してもお腹に限られていました。それが肺に転移して、信じられないというか……。実は肺の転移は2年前からあって、CT、MRI画像の診断会社が2年間、見過ごしていたんです。

鎌田 前の画像を再チェックしたら、映っていた。

吉野  私のがんがスローグローイングだから、まだよかったんです。私はそれを知ったとき、頭にきましたが、5回目の手術をした外科医は、「後から考えての話だけどね、もしあのとき、肺の転移も見つかって、お腹と両方だったら、手術をあきらめていたかもしれないよ」と(笑)。

鎌田 軽いノリの先生だね(笑)。

吉野 その先生は私と同い年なんですが、私の学年は明るいんでしょうか(笑)。

鎌田 私は『いいかげんがいい』(集英社)という本を出していますが、それこそ、加減のいい、すばらしい先生だ(笑)。

吉野 6回目の手術では右肺を半分、左肺は2カ所切りました。胸膜に迫っていたので、両肺一緒に手術しないと手遅れだったのですが、そのときの肺外科の先生も、「両方一緒に手術できるよー」という軽い感じでしたよ(笑)。

国立がん研究センター内に「肉腫(サルコーマ)外来」発足

写真:意識して良い言葉を発して

「意識して良い言葉を発して、それを現実にしようと思っています」と吉野さん

鎌田 いやぁー、すごい人生だ。冒頭で、肉腫の啓発と肉腫診療の改善に力を注ぎたいと言われました。この活動はいかがですか。

吉野 3回目の手術のあと、日テレのプロデューサーに病気のことをお話ししたら、私1人にスポットを当てた、『5年後、私は生きていますか?』という2時間のドキュメンタリー番組をつくっていただきました。それをきっかけに、肉腫の啓発と肉腫診療の改善に向けた活動を始めたわけです。

鎌田 その後、肉腫に対する世間一般の理解は深まりましたか。

吉野 私は「日本に『サルコーマセンター(肉腫専門診療施設)を設立する会』」の代表をやっていますが、マスコミでかなり取り上げられるようになりました。また、私の会が国立がん研究センターに訴えて、中央病院内に「肉腫(サルコーマ)診療グループ」をつくっていただきましたし、そこで「サルコーマカンファレンス(肉腫検討会)も行われるようになりました。また、「肉腫ホットライン」もつくっていただきました。このホットラインには1年間で800件ほどの電話がかかってきました。これまで私たちのような希少がんの患者は、相談するところもなく、がん難民にもなれなかったわけですが、国立がん研究センターに、アメリカのサルコーマセンターのような部門をつくっていただいたことは、大きな成果だと思っています。また昨年「肉腫(サルコーマ)外来」もつくっていただきました。

鎌田 これからの夢みたいなものは、ある?

吉野 私は大分県出身ですが、大分県に、がん患者さんで子どもたちに「いのちの授業」を行っていた山田泉さんという方がいらっしゃいました。

鎌田 亡くなる直前に、この対談(2008年12月号)にも出ていただきました。

吉野 おこがましい話ですが、私はこれまで視覚障がい者の方々にダンスを通して「生きること」を伝えてきたつもりです。これからは一般のこどもたちに向け昨年から始めた「いのちの授業」ももっと行って、いのちの大切さを伝えていけたら、と願っています。

鎌田 病気のほうはこのまま収まりそうな気がする?

吉野 肺のあとに腕と背中に再発、昨年8月に7回目の手術をしました。「七転び八起き」と言いますから、友だちには「もうこれで終わりだぁ!」と言っています(笑)。手相の世界的な先生に見てもらったら、「85歳までは余裕で生きる。60歳まではバリバリ仕事をする」と言われました(笑)。言葉は言霊だといいますから、意識して良い言葉を発して、それを現実にしようと思っています。「いのちの授業」をやるためにも、これからは少しは自分の身体のことも考えていこうかな、と思っています(笑)。

鎌田 それがいいよ。いやぁ、今日は本当に恐れ入りました。私のほうが元気をいっぱいもらった感じです。

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