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妻の写真を手帳に入れて持ち歩いていると気持ちが楽になりました 国立がんセンター元総長/日本対がん協会会長・垣添忠生 × 鎌田 實
駆け落ちに近い形で12歳年上の女性と結婚

鎌田 がんになる前の膠原病との付き合いは大変でしたか。
垣添 そうでもなかったです。軽かったですから。一時、ステロイド剤を30ミリグラムぐらい服用していましたが、漸減していき、後半の10年間ぐらいは、2日に1回、5ミリグラムぐらいの服用でした。非常によくコントロールされていたと思います。
鎌田 それで垣添さんとご一緒に山に行かれたり……。
垣添 ええ、ハイキングに行ったり、カヌーを漕いだり。体調を見ながらですが、あちこち行きましたね。
鎌田 垣添さんが海外に仕事で行かれるときも、同伴が許される場合は、ご一緒に行かれたようですね。
垣添 私が学会に出席している間、妻は街を見学して歩いていました。
鎌田 奥さまは英語も堪能で、ドイツ語もおできになりましたからね。それにしても、本で知りましたが、劇的な結婚ですね。
垣添 恥ずかしい(笑)。
鎌田 駆け落ちに近い(笑)。
垣添 両親の理解がなかなか得られなかった。
鎌田 垣添さんが東大卒で医師になったばかりの26歳、奥さまが38歳。ご両親は当然、「えっ!」と思いますよね(笑)。
垣添 私はその歳まで両親と一緒に暮らしているんですよ。人間というのは連続性を持って生きているわけですから、突然変身するわけはない。両親も私を信用してくれればよかったのです(笑)。両親も苦しんだと思いますが、3年経ってわかってくれました。
鎌田 本を読むとよくわかりますが、とても魅力的な奥さまですよね。
垣添 私はいい人に出会えて、本当に幸運だと思っているんですよ。私たちが結婚したとき、3日しかもたない、10日もたない、1カ月もたない、3カ月もたない、6カ月もたない、1年という声はなかったのです(笑)。それが結局、40年間、波風ひとつ立ちませんでした(笑)。波長がぴったり合ったんですね。ものの考え方が完全に一致していました。幸福な結婚だったと思います。
国立がん研究センターの総長が朝からゴミ出し
鎌田 垣添さんは外科医として若いころから忙しかったでしょうし、その後出世されて、国立がん研究センターの病院長や総長をやられて、��よいよご多忙だったわけですが、奥さまを放っておく時間も多かったのではないですか。
垣添 ウイークデーは厳しかったですね。途中から、週休2日になりましたが、土曜日もいつもより遅く出勤してウイークデーに片付かなかった仕事を右から左に処理しました。午前中は管理業務を片付け、午後は夕方まで自分の論文などを書き、夜は妻と銀座で待ち合わせて映画を観たり、歌舞伎に行ったりして、そのあと食事をするようにしていました。
鎌田 それもかっこいいですね。
垣添 私も定年離婚されないよう、気をつかっていたのです(笑)。
鎌田 土曜の夕方から日曜は、割合奥さまとご一緒に過ごされたわけだ。
垣添 それから、夏休みの1週間はできるだけ一緒に行動していました。後半の20年ぐらいは、夏休みになると必ず奥日光に行き、ハイキングをしたり、カヌーを楽しんだりしました。現役のころから、休みが取れれば、いつも一緒に楽しんでいました。人生の楽しみを定年・退官まで先送りするということはしなかったわけです。そういう意味での後悔があまりなかったことは、ありがたかったと思います。
鎌田 医師の人生を考えた場合、自分の腕を上げることに精力を注ぐあまり、人間的な生き方というものを置き去りにしてしまう人も少なくないと思いますが、垣添さんは仕事人間ではあったけれども、奥さまのおかげで、一般の人たちと同じ普通の空気を吸って、人間的な生き方をされてきた、という感じがしますね。
垣添 妻は買い物が好きなんですが、なかなか選択ができない人でした。ですから、買い物にはよく付き合いましたよ。
鎌田 そういえば、垣添さんはかなり以前から、家事をやっておられたようですね。
垣添 妻が病弱でしたから、私が家のこともやらざるを得なかったのです。ゴミ出しはもちろん、家の掃除、洗濯……、簡単な料理もできます。
鎌田 日本のがん医療の最前線をいくがんセンターの病院長、総長が、朝からゴミ出しをやっていたわけですね(笑)。
垣添 そうですよ。何の抵抗もなかったですね。当然のことと思って、やりました。日曜日は1週間分の買い物を一緒にし、重い物は全部私が持ちました。
鎌田 そういうことが全部、最期の在宅での看取りにつながっていくわけですね。
垣添 そうです。
妻の死後強い喪失感酒におぼれた日々

鎌田 しかしと言いますか、だからこそと言いますか、奥さまを看取ったあと、垣添さんは大変な状況に追い込まれますよね。
垣添 私たちはちょっと変わった結婚をしていますし、子どもがいませんから、2人の絆がすごく強かったんですね。ですから、妻を喪ったあと、「グリーフケア」(悲嘆のケア)の論文などに書かれている、「半身をそがれたような感じ」「手足をもぎ取られたような感じ」といった、肉体的な痛みを伴う非常に強い喪失感を覚えました。すごくつらかったです。想像を絶するつらさでした。
鎌田 お酒に少しおぼれる。
垣添 少しじゃなく、ドボンとおぼれる(笑)。それまでも食事を美味しくいただくために、晩酌は少しやっていました。妻も少し鍛えて、一緒に晩酌を楽しんでました。しかし、妻が亡くなったあとの酒は酔うために飲む酒です。しかし、飲んでも酔わないんですよ。ビールなんか全然酔わない。ウイスキーなど強い酒を飲んでも、心が麻痺しないのです。
鎌田 夜は眠れないでしょう。
垣添 自分で睡眠剤を飲みましたね。精神科の医師に相談していたら、おそらく抗うつ剤を出されたでしょう。完全なうつ状態にあったと思います。
鎌田 その状態から脱出するのに、どれくらいかかりましたか。
垣添 前向きに生きようと思い始めるまでに、3カ月ぐらいかかりました。それまでは、どこまで落ち込むのか、足がなかなか岩盤にたどり着かない感じでした。日中は忙しく仕事をしていますから、その間は忘れることができるのです。しかし、仕事を終えて家に帰ると、話す人がいない。それがつらかったですね。100カ日法要を終えたころから、こんな生活をしていると、妻も悲しむだろうな、と思い始めて、健康のこと、食事のこと、日常生活のことなどを少しずつ前向きに考え直しました。それから少しして、5月の連休に奥日光に行きました。行くまいと思っていたのですが、2人で楽しんできたことを止めてしまうと妻が悲しむような気がして、心を決めて出かけたわけです。
鎌田 行けば、奥さまのことを思い出すでしょう。
垣添 はい。カヌーのバランスを取るために、妻の代わりに砂袋を乗せる訳ですから。つらいですよ。でも、行ってよかったと思いました。
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