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妻の写真を手帳に入れて持ち歩いていると気持ちが楽になりました 国立がんセンター元総長/日本対がん協会会長・垣添忠生 × 鎌田 實
リュックに妻の写真を一緒に絶景を眺める

鎌田 もともと垣添さんは東大時代に空手をやっておられたようですが、奥さまが亡くなられたあと、居合いも始められたとか。
垣添 以前から武道好きで精神と肉体を鍛えなくてはと思ったからです。最近は本格的に山登りも始めました。
鎌田 救われますか。
垣添 そういう感じはあります。登る途中、つらいとき、苦しいときが何回となくありますが、そういうとき心の中で、「つらいな~」「苦しいよ」「この急坂はどこまで続くんだろう」などと、妻と対話をしているのです。一緒に登っている気持ちです。実際、山登りのときは、リュックの中に妻の写真を入れておき、頂上にたどり着いたら、写真を出して、山頂からの素晴らしい風景を一緒に見せてやるんです。
鎌田 いやぁ、感動的ですねぇ(笑)。
垣添 この3月には遂に冬山にデビューしました。最初は簡単な山からということで、八ヶ岳の硫黄岳に登りました。10本爪のアイゼン履いて、ピッケル持って(笑)。
鎌田 八ヶ岳は私の縄張りです。登山はしませんけれど(笑)。硫黄岳は八ヶ岳の中で、私の病院からいちばんよく見える山ですよ。
垣添 案内してくれた人はもう八ヶ岳に200回ぐらい登っている人でしたが、こんなに晴れているのは初めてだ、と言うぐらい好い天気で、360度すべて見渡せ、素晴らしい絶景でした。妻の写真も360度1周させて、絶景を見せてやりましたよ。
鎌田 奥さまを亡くし、強い喪失感に襲われて陥った危機的な状態を克服してからも、垣添さんは奥さまを決して忘れていない、ということですね。
垣添 全然忘れていません。最初の3カ月のころは、大げさにいえば、1日に何千回も妻のことを思っていましたが、今は何百回ですね。
妻が見守ってくれると強く感じた
鎌田 私たち医師は、患者さんには4つの痛みがあると、よくいいますよね。肉体的な痛み、精神的な痛み、社会的な痛み、霊的な痛み、この4つです。その痛みは患者さんの配偶者にもありますか。
垣添 あると思いますね。私は長い間、スピリチュアルな痛みというものが、よくわからなかったのです。妻が亡くなったあと、昔、私がメイヨー・クリニックにいたときに世話になった友人夫妻と、ミネアポリスで食事をしました。私が妻の写真をテーブルに置くと、友人が「スピリチュアルには、自分も4人分のテーブルを予約したつもりなんだ」といったのです。そのときに、スピリチュアルという言葉の意味が少しわかった気がしました。
鎌田 私は、スピリチュアルな痛みを、「この世からいなくなる悲しみ」と解釈しています。今回、垣添さんの本を読んで、垣添さんにとってのスピリチュアルな痛みというのは、パートナーがこの世からいなくなる悲しみだろうな、と思いました。
垣添 まさにそうです。簡単に言えば、喪失感ですが、何か巨大なものを喪失したという感覚です。その1部がスピリチュアルな痛みだろうと思います。その痛みは、私が医師として患者さんの死を見てきて感じた痛みとは、衝撃の度合いが違いました。しかし、いつまでも落ち込んでいてはいけない。生活を立て直し、前向きに生きれば、亡くなった妻も喜んでくれる。それで妻の写真をリュックや手帳に入れるようになったら、自分の気持ちもとても楽になりました。何か妻が見守っていてくれるような気がします。
鎌田 奥さまが上のほうから見てくださっていることを感じることはありますか。
垣添 山に登ったとき、そういうことを感じました。非科学的な話ですが、奥白根山に登って道を間違えくたびれ果てて、本当に苦しいとき、突然小さな鳥が上から降りてきて、1メートルぐらいの近距離の枝に止まって、大きな口を開けて鳴くんです。よく見ると、その鳥は、私と妻がハイキングをしていて年中見た鳥なんですよ。私には、妻が鳥の姿をして降りてきて、「しっかりしなさい」と励ましてくれているとしか思えませんでした。
もう1回は、北海道のトムラウシ山に登ったときのことです。この山は高さはたいしたことはありませんが、山が深いのです。昨年7月の風雨が強い寒い日に、多くの遭難者が出た山です。やはり雨と風が強い日で、私も途中、這松の中でくたびれ果てて棒立ちになっていたときです。そのとき、突然這松の中からポーンとナキウサギが跳びだしてきて、私の袖に当たって一瞬に姿を消したのです。妻が「しっかりしなさいよ」と気合いを入れに来てくれたんだ、と直感しました。妻が見守っていてくれることを強く感じました。
鎌田 亡くなったあとも、奥さまとつながっているという感じですね。
垣添 そういう感じは常にあります。
私が亡くなったあとは奥日光に妻とともに散骨を

鎌田 垣添さんが完全に元気を取り戻されるきっかけになったのは、1周忌の直後に、奥さまの絵の遺作展を銀座の画廊で開かれたことだということですね。
垣添 学生時代から絵を描いていたのは私ですが、仕事が忙しくなって挫折しました。それで私の画材を使って妻が絵を描き始め、素晴らしい油絵、クロッキーを描くようになりました。あと数年長生きできたら、立派に画家になっていたと思います。妻が亡くなって半年ぐらい経ったとき、妻ががんに倒れる前に、「2人展」をやろうとしていたことを思い出し、「そうだ、遺作展をやろう」と思い、半年前から着々と準備を進めました。09年1月の1週間、妻の「遺作展」をやったわけです。その1週間、画廊に詰め、妻の絵と対話をしながら、濃密な時間を過ごしました。あれは良い経験でした。
鎌田 垣添さんは奥さまと2人できちんと遺言を書かれていたので、奥さまが亡くなったあと、何のトラブルもなかったということです。遺言は大事だと思います。
垣添 とくに、係累の多い方、資産の多い方は大事です。
鎌田 配偶者を亡くしてつらい状況のとき、相続で争いになったら、なお大変ですからね。
垣添 私は公証人を通した遺言をつくっていたので、そういう苦労はしなくて済みました。
鎌田 それから見事だと思うのは、垣添さんご自身が亡くなったあとの財産の分与を明確にされていることです。土地は奥さまのご姉妹に相続されるようになっている。動産については寄付されるんですよね。
垣添 はい。動産は日本対がん協会とがん研究振興財団に寄付します。ですから、多少危険な山登りやカヌー下りをして、万が一のことがあったとしても、自分の死後の処理に関しては何の心配もありません(笑)。ただ、家や私と妻の私物をどうするか、という問題があります。NHKの「無縁死」に関する番組を見ていたら、最近は無縁死する人たちの持ち物を整理してくれる会社があるそうです。そういう会社と契約しておこうかなと考えています。また、私は墓を造る気はありませんから、散骨してくれる会社に、妻の骨と一緒に奥日光に撒いてくれと頼もうかと思っています。そうしてこの世から跡形もなく消える。そういう生き方をしたいですね。
鎌田 日本人には、最後のところでドンと寄付をする人が少ないですよね。垣添さんは1つの生き方を示されていると思います。最後になりましたが、『妻を看取る日』を書こうとしたきっかけは?
垣添 妻が亡くなったあと、翌年の暮れ正月、何もすることがないので、妻との思い出やら、妻の闘病記やら、思い出すままに毎日少しずつ書いていました。そして、ある程度の分量になったとき、桐朋学園の同級生である嵐山光三郎君に、「物になるかな」と読んでもらったところ、「妻の死を冷静に書いている。それにがんの在宅医療やグリーフケアのこともあって社会的広がりもある」と言って、新潮社を紹介してくれたのです。書くことによって心が元気になり、表現することで癒されましたね。
鎌田 いや、『妻を看取る日』を読んだ読者は、皆さん癒されたと思いますよ。
垣添 (両手を広げながら)読者からこんなに手紙をいただきました。書いて良かったと思います。
鎌田 本誌の読者にぜひ読んでほしいですね。
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