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「人間は暗いところから生まれ、死ねばまたそこに帰って行く」という空海の哲学を知り、死の恐怖が消えた 小説家/脚本家・早坂 暁 × 鎌田 實
誰も掘り下げてこなかった国が戦争に負けた真の意味

鎌田 私は長男が8月6日に生まれたとき、私自身は広島に縁もゆかりもありませんが、原爆の「爆」という名前を付けようとしました。しかし、私を半ば拾い育ててくれた、命の恩人である父親に、「子どもの名前を遊びで付けるな」と叱られて、普通の名前にしました。その後、その長男が結婚し、私にとって初孫が生まれたとき、「親父は僕に鎌田爆という名前を付けたかったんだろう」と言って、「ばく」という名前を付けてくれました。私は、その孫が大人になったときに、この国が徴兵制を敷く国になり、孫が戦場に行って人を殺したり、殺されたりすることがないようにと願って、『この国が好き』(マガジンハウス)という絵本を作りました。
早坂さんも「夢千代日記」や「きけ、わだつみの声」などの脚本を通して、2度と戦争を起こしてはならないということを切々と訴えておられます。とても共感を覚えます。
早坂 15歳で海軍兵学校の学生として敗戦を体験し、なおかつ広島の惨状を目の当たりにしていますから、その体験を抜きに書くことはできないのです。日本としては建国以来初めての敗戦であり、占領軍が駐留するのも初めてでした。それは国家として大変なことです。しかし、国が戦争に負けるとはどういうことなのか、本当のところは誰も掘り下げてこなかった。私はこれからもそのことを真剣に突きつめていこうと思っています。誰かがそれをやらないと、この国は先細りになり、やがて絶滅国になりますよ。
20世紀の最大の過ちを次世代にバトンタッチ
鎌田 先ほど、原爆の放射能の影響は3代100年にわたって残ると言われましたが、戦争に負けた意味について真剣に突きつめるのも、100年がかりの作業かもしれませんね。
早坂 その作業を世代を超えてバトンタッチしていかなければなりません。天皇制を守ろうとして、降服の機会を逸している間に、原爆を2つ落とされてしまった。また、占領軍は日本国民を統治するために天皇制を残して利用しました。つまり、戦争末期から敗戦直後にかけて、天皇制を利用するだけで、本気で突きつめて考えたことがなかったのです。そういうことも含めて、国民は敗戦によって大きな���由を獲得したかもしれないけれども、逆に失ったものも大きかったのです。明治維新以来、営々と築いてきたものがゼロになったわけですからね。最近、100年に1度の経済危機とか言っていますが、60余年前の敗戦状況に比べれば、今はよほど贅沢ですよ。
鎌田 あまりびくびくしなくてもいい(笑)。
早坂 大事なのは心構えです。米国の金融危機のせいにして、100年に1度の災害という言い方をしていますが、そんな受け止め方でいいかです。
鎌田 しかし、敗戦直後の日本人はたくましかったですよね。
早坂 それは母親の力です。男たちは打ちのめされて、沈黙していました。母親たちは子どもをかかえて、この子たちを食わせなきゃと、必死に動き回りましたからね。
鎌田 私はチェルノブイリ原発事故の汚染地域に、91回ほど医師団を派遣し、約14億円の薬を届けてきました。長崎市に、自ら被爆しながら、被爆者の救済に当たった永井隆博士を記念する永井隆平和賞という賞があり、私たちのNPO法人もその賞をいただきました。そうした関係もあって、長崎や広島に何回も行くようになりましたが、20世紀に人類が犯した最大の過ちは、アウシュビッツと広島・長崎の原爆だと、改めて感じますね。その過ちを決して忘れてはいけないし、そのことを理解してもらうために、小説、映画、音楽などを通じて、次の世代にバトンタッチしていくことは、とても大事なことだと思います。
早坂 それが根本ですが、その大切さが忘れられていますね。北朝鮮の核実験に対抗して、日本も核兵器を持つべきだという議論が出てきており、それに拍手する人もいる。本当に困ったことです。
心筋梗塞の手術前に発見された胆嚢がん?

鎌田 さて、そろそろ本題に入りたいと思います。早坂さんは50歳ぐらいに心筋梗塞、胃潰瘍を経験され、その後胆嚢がんと言われたのですか。
早坂 そうです。胆嚢がんと診断されました。胆石の痛みがわぁーっときて、ある大学病院に入院したんですが、その病院の超音波診断の世界的な大家に診てもらったら、胆嚢がんだと言われたのです。 鎌田 早坂さんに直接、説明がありましたか。
早坂 その前に心筋梗塞を起こしていたので、バイパス手術を行うことになっていました。その担当の先生も世界的な大家でした。それより少し前に、京都で仕事をしていて倒れ、京大病院の内科に運ばれたことがありました。そのとき、「実は心筋梗塞を起こし、バイパス手術を受けることになっている」と告げると、「その先生は世界的な名医ですから、はやく手術してもらったほうがいいですよ」と言われていました。
そのバイパス手術の準備の中で、胆嚢の痛みがひどいからと調べてもらったら、がんが見つかったわけです。はっきりがんと言われました。「がんが見つかりましたから、バイパス手術は後回しにします」と言われました。さすがの心筋梗塞も、がんという横綱が出てきたから、ちょっと横にどいとけ、という感じでしたね(笑)。がんの患者に心臓バイパス手術をやっても始まらんぜ、ということでしょう(笑)。ただ、僕自身は、胆嚢にもがんができるのかと、ちょっと驚きましたね。
手術までのひと月半がいちばんきつかった
鎌田 がんと言われたときは、どんな気持ちでしたか。
早坂 がんと心筋梗塞の挟み撃ちに遭ったような気がして、医師に「正直に言ってくれ」と頼みましたよ。当時50歳になったばかりで、仕事をいっぱいかかえていましたからね。「胆嚢がんがとれない場合は、肝臓の側だから怖いですよ」てなこと言われ、さらに「1年半か、2年ぐらいですかねぇ」と、さり気なく言われました。そら大変だと思いましたねぇ(笑)。がんの手術をしているときに、心臓が止まると困るので、がんと心臓の両チームの準備が整ってから手術を受けることになり、ひと月半ほど待ちました。その間がいちばんきつかったですね。
鎌田 1年半か2年ぐらいなどと言われると、ショックでしょう。
早坂 急に死というものが目の前にぽーんと現れて……。人間はいずれ死ぬわけですが、目の前のこととして考えたこともなかったものですから、まいりました。さらにある日、「早坂さん、何食べてもいいですよ」と言われたときは、本当にショックだった(笑)。
鎌田 わかる、わかる(笑)。
早坂 病院が食事療法を放棄した。末期がんだと思いました(笑)。それで「くそっ!」と思って、「いちばん良い肉、買ってこい」と言って、肉と鉄板を買ってこさせて、個室で焼いて食べました。すごく匂いますから、周囲の人が寄ってきて、「いいんですかぁ」と心配してくれました(笑)。
また、「夕方までに帰ってきてもらえるなら、どこへ外出してもいいですよ」とも言われました。最後だからそう言うんだなと思いましたが、どこへ行って何を見たいかがわからない。映画や演劇を観ると、自分は書きたいことがいっぱいあるのに、いま書けないという悔しい思いをしますから、観ない。
鎌田 なるほど。映画や演劇ではがんの脚本家は癒されない。
早坂 そのうちに、音楽は癒しになるかもしれないと思い、演奏会に行きました。ヴィヴァルディの「四季」の第1楽章「春」を聴き、自分の内部の異変にびっくりしました。演奏が始まり、いいなぁと思って聴いているうちに、嗚咽がこみ上げてきて、「おおおーっ!」と、僕は泣いたのです。周りの人は僕をおかしいと思ったんじゃないでしょうか。ヴィヴァルディを聴いて嗚咽する人などいませんからね(笑)。しかし、僕は嗚咽を抑えることができないのです。それで這うようにして外に出ました。
外へ出て30分ほどで気持ちは収まりました。そこで僕が思い至ったのは、これまでの僕は身構えていたために、魂の本音が出なかったのだ、ということです。それが死と直面しているときに、やわらかい音楽に触れて、僕の本性が出たのです。それほど死ぬのが怖かったのです。それから死に関する本を読み始めました。まず『死ぬ瞬間』という本を読みましたね。
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