がん細胞から世界平和まで縦横に語り合う白熱の3時間 「知の巨人」立花さんが自らのがん体験を踏まえ、樋野さんに鋭く迫る がん特別対論・立花 隆(評論家) × 樋野興夫(順天堂大学医学部教授)

撮影:板橋雄一
構成/江口敏
発行:2008年11月
更新:2019年7月

10個の細胞があればがんかどうか診断できる

写真:立花さんと樋野さん

立花 話をうかがっていると、たしかにがん細胞は賢いですね。最初は誰も気づかない。

樋野 1個のがん細胞ができた時点では、誰にも発見することはできません。がんが目に見えるようになるのが直径1センチ、画像でわかるようになるのが0.5センチの大きさです。

立花 1センチの大きさだと、10億個の細胞ですね。

樋野 はい。0.5センチで1億個ぐらいです。0.5センチではまだ手に触れません。1センチになると手に触れます。その1センチの段階で発見できれば早期がんです。だから、10億個の細胞ががんになっても治る。早期発見が大事だからといって、1個のがん細胞を血眼になって探す必要はありません。

立花 血眼になっても1個の細胞ではわからないでしょう。

樋野 重ねて言いますが、がん細胞は共存すべきものですよ。そもそも、いくらがんの芽があっても、大成するがん細胞は少ないのです。人間と同じで環境、境遇が良くないと大成しません。

立花 顕微鏡でわかる限界はどのくらいの大きさですか。

樋野 1個の細胞では難しいですが、10個あればわかりますね。

立花 へぇーっ、そんなわずかでわかるんですか。

樋野 1個の細胞は20ミクロンですが、細胞は1個が2個、2個が4個、4個が16個と増殖していきますから、複数の細胞があればわかります。

立花 その場合、細胞1個1個の核の異型とか、並び具合の異型とか、いろんな異型があると思いますが、どういう異型を見るのですか。

樋野 がん細胞には2つの特徴があります。「細胞異型」と「構造異型」です。この2つをもってがんと診断します。細胞の異型は核などが変形している状態です。構造の異型は腺管をつくっているのが離れているとか、1つひとつ分離していたのがくっついているとかといった状態です。たとえば、胃がんに細胞異型はまったくないけれども、構造異型があるというケースがあります。これを“手つなぎ腺管”と言います。細胞的には異型はないが、構造的におかしい。これも悪性所見です。

顕微鏡でもわからない眠っている大物のがん細胞

立花 そうしたがん細胞を顕微鏡で見れば、その後のがんの進行が、ある程度判断できるわけですか。

樋野 わかります。浸潤してきたり、悪性度を増してきたり、細胞異型が出てきたり、それが予測できますね。

立花 どの部分でわかるのですか。

樋野 核の形、構造の変化を含めて、正常細胞との隔たりを見れば判断がつきます。がん細胞はその臓器本来の細胞を模倣します。他の臓器の細胞のようにはなりません。だから胃なら胃、大腸なら大腸の正常細胞と比較して、その違いから境界病変か、がんか、それを病理の専門家が診断するわけです。

立花 がんが不死化しているかどうかは、どのあたりでわかりますか。

樋野 初期に病理で診断する時点では、がん細胞は不死化をまだ獲得していません。身体の中のがんを見てもわかりません。試験管に培養したときに、生きるとか、転移能力を獲得しているとかがわかってきます。がんのかたまりがあっても、そのほとんどは転移しません。転移するのはがんのかたまりの中の、ほんの一部の細胞です。初期のがん細胞には転移能力はありません。大きくなっていく過程で転移能力を獲得していく。

立花 良性腫瘍の場合、自分で境界を作って自分を囲い込み、そこから決して外には出ませんね。ああいう形になると、良性と判断していいわけですか。

樋野 臨床学的には良性です。でも、細胞レベルではその中に悪玉がいることがある。たまたま悪玉が出ていないだけです。

立花 なるほど。調べた中に悪玉が入ってなかったというだけで、悪玉がまったくないということではないわけだ。

樋野 たとえば、抗がん剤は騒いでいるがん細胞には効きます。増殖し、分裂している細胞には効きますが、G0(増殖期ゼロのステージ)で眠っている大物には効きません。がん細胞でも、大物はどっしりしているのです(笑)。

立花 それは調べればわかりますか。

樋野 わかりません。いくら顕微鏡をのぞいても、これがG0の大物細胞だというのは判断できません。ただ、大物はごくわずかです。どんな抗がん剤、分子標的治療でも、分裂しない大物は叩けないのです。だから乳がんなどは、術後10年経っても再発してくることもあるのです。

がんは転移するとき大きなパワーを使う

立花 ぼくは再発率が高いと言われる膀胱がんですが、そういう大物細胞が結構あちこちに眠っているのでしょうか(笑)。

樋野 いや、膀胱がんはがん細胞が空間の中を泳ぐようなものですから、表面的な散布・播種的な再発かField carcinogenesis(発がんしやすい場)による早期の再発でしょう。一見再発率が高いように見えますが、がん細胞そのものはおとなしい。胃がん、大腸がん、肺がんなどが転移する場合は、よほどの大物が転移しているわけですから、深刻ですよ。

立花 そうですか。膀胱がんは再発率が高くても、おとなしいがんなんですか。

樋野 血行性転移の場合、たとえば1個のがん細胞が血管に入ったとしても、20ミクロンの大きさのがん細胞にとって血流は激流ですから、ほとんど死んでしまいます。

立花 リンパも同じですか。

樋野 同じです。がん細胞が体内をめぐっていても、そう簡単には転移は成立しません。転移するのは0.1パーセントぐらいでしょう。

立花 どういう場合に転移するんですか。

樋野 1個の細胞では転移は無理です。転移するがん細胞は血管に入ったら、自分でかたまり、腫瘍塞栓をつくります。そして血栓のようにある部分に付着して内部に浸潤し、転移が成立するわけです。

立花 それが0.1パーセントぐらいの確率でしか起きないということですが、現実に起きている。それはなぜですか。

樋野 がん細胞自らが接着能力を獲得しているからです。それに遺伝子の変異が加わって、転移が成立している。それまで浸潤する能力がないのに、浸潤するような遺伝子の変異が起きれば、浸潤できるようになります。

立花 転移して浸潤するまでには、大変な段階を踏んでいるようですね。

樋野 がん細胞ができ、それが局所的に2個、4個と増殖し、大きくなっていくと、そこから離脱しなければなりません。がん細胞がそこから離脱する能力を持つということは、ある意味では接着性が弱くなるということです。そうして外へ出ようとしても、人間の身体には間質という支持組織があり、それを酵素・タンパクで壊さなければ本当の外には出られません。がん細胞は自らタンパク分解酵素を出してそれを壊し、動く能力を身に付けながら、血管にたどり着くわけです。さらにがん細胞は血管を呼び込むような血管新生因子を出して新生血管に入り込み、接着能力を再び獲得して転移する。これは相当なパワーですよ。

正常細胞が活発なうちはがん細胞は大きくならない

写真:立花さん

立花 そういういろんな能力を身に付けながら転移するわけだから、長い時間がかかる。

樋野 最初にがん細胞ができてからそこまで、20~30年はかかっていますね。ただ、正常細胞ががん化する起始には、1個の発がんの起始遺伝子の変異でいいわけです。1個の遺伝子の変異でがん化がスタートしても、最初は全然大きくならない。長年かけて機会あるごとにいろいろな能力を獲得し、セレクションしながら大きくなる。がん細胞ができても、正常細胞の増殖能力が旺盛だったら、がんは大きくなりません。たとえば同じがん細胞を、若い動物と年寄りの動物に移植した場合、どちらのがんが大きくなるのかと言えば、年寄りの動物です。若いほうは大きくならない。

立花 なるほど。正常細胞が活発に増殖している若い頃は、がんは成長しない。年を取り正常細胞の活動が鈍ると、がんが成長し、表に出てくるわけですね。

樋野 昔は85歳以上で亡くなった人を解剖すると、がんで死んだわけではないのに、前立腺がん、甲状腺がんの人が20パーセントはいた。亡くなって解剖して組織を顕微鏡で見てはじめてがんとわかった。こういうがんを“天寿がん”と言います。

立花 1個の遺伝子からがん化が始まるということですが、1つの細胞で遺伝子がすべて解読できれば、その細胞が最初にがん化した細胞かどうか、わかるものですか。

樋野 わかります。いずれにしても、がんを診断するためには、正常細胞と最も初期のがん細胞を比較することが大事です。そうすれば、1つの発がんの起始遺伝子に変異があることがわかります。
そして、その遺伝子の変異とがんが表面化する時期には時間的なギャップがありますが、発がんの起始遺伝子の変異があればがんのポテンシャルを持っていることになるわけです。

立花 先ほどのバイオプシーの段階で遺伝子解析まではやらないですか。

樋野 通常はやりませんね。私たちはHE染色の顕微鏡像を見れば、大体のことはわかります。現時点では、遺伝子診断は通常の顕微鏡診断をまだ超えているわけではありません。ただ、遺伝子診断はある意味、パターン認識ですから、病理医のような修練は必要ないのかもしれません。


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