悪ガキは、排除するのではなく、眼差しを向けてあげると変わる 作家/僧侶・玄侑宗久 × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成●半沢裕子
発行:2006年2月
更新:2018年9月

がんは私とまわりの世界との関わりから起きた「出来事」

鎌田 がんばるという意識をもつと、一見力がみなぎるように思えますが、実際には筋肉が緊張して本来の力が出なくなります。交感神経が緊張状態に入り、血管が収縮して循環は悪くなるし、交感神経の緊張状態が長く続けば、リンパ球が減って免疫機能が少し下がる。だから長期的に見たら、その人の生きる力にはつながらない感じです。
そこでお聞きしたいのですが、がんばらないことは怠けることではなくて、他力、もっと大いなる力に身を任せることであり、それによって何かが変わるのではないですか。西洋医学的にいうと、副交感神経を刺激し、くつろぎ状態に入ることで、筋肉の硬さを取り除き、血管を広げ、リンパ球が増える。それは他力によって可能になるのではないかと、先生のご本を読み返して思ったのですが。

玄侑 安保先生の免疫理論でも、NK細胞は交感神経優位のときに数が増えるとおっしゃいましたね。でも、増えたNK細胞は副交感神経優位にならないと活性化しないと。ですから、メリハリといいますか、両方必要なんだと思います。がんばるのは瞬発的ですが、その瞬発的なやり方を長期にわたって使おうとするのが、誤りなんだと思います。
さらに元のところを言うと、仏教はすべては空と考えます。これはわかりにくいですが、私は「虹のようなもの」と考えています。

鎌田 あるけど、ない状態?

玄侑 ええ。虹は明らかに見えていますが、その下に行きたいと思っても行けない。裏側が見たいと思っても見られない。ある意味、虹は実在ではなく、あくまで私と太陽と水蒸気の関係性の中に、ひとつの出来事として現れている。
そして、出来事を攻撃しても仕方がありません。同じものでも立ち位置が変わると違って見えます。しかも、そこには「私」もかかわっているんですからね。

鎌田 では、がんになったとき、その体験からがんという病気を、どのように考えたらよいのですか。

玄侑 たとえば、クラスに大勢の生徒がいて、先生のいうことを聞かない悪ガキが2~3人いますよね。そういうのをよく比喩的に「クラスのがんだ」と言いますが、要するに脳の言うことを聞かなくなった細胞が、がんだろうと思います。
悪ガキをどうやったら変えられるかというと、排除では変わらない。耳を傾けて優しい眼差しを向けてあげると、それだけで変わったりする。しかも、状況の中で起こってくる出来事という目で見ると、状況さえ変わればすごくいい子だったりするわけで。

鎌田 うん、そうですね。

玄侑 瞑想ではいろいろなことをしますが、たとえば、普段の生活の中で、最近、自分の膵臓のことを想ったのはいつですか?(笑)

鎌田 (笑)えーと。

玄侑 膵臓なんか、あまり想いませんよね。胆嚢のほうがまだちょっと想いますかね、油っぽいものを食べたあととか。

鎌田 ははは。胃だと想いますね。

玄侑 ああ、胃は想いますね(笑)。でも、膵臓のことをリアルにイメージをしながら、想ってあげることはないでしょう。瞑想では、そういうこともするんですね。体のあちこちの臓器がそれなりの働きをしているのを、脳がじっと見てあげる。そのためには、膵臓がどんな働きをしているかとか、どんな酵素が出ているかとか、そういうことも一応知って、働いているのを喜ばしく眺める。そういう瞑想をするわけです。

「成就した」という現在完了形が祈りの最も有効な方法

鎌田 先ほど、言葉以前の感覚を大事にしたいというお話がありました。その一方、ご著書の『まわりみち極楽論』では、上手な言葉で呼びかけることによって臓器が反応する、と書かれていますね。手が冷たいので、温かくしたい。そのとき、温かくなれではなく重くなれと思ったほうが、血液がたくさん行くと。

玄侑 「重くなった」ですね。

鎌田 あ、そうか。重くなれということ自体、いけないんでしたね。

玄侑 現在完了形のほうが効くんです。

鎌田 では、がんになったときは、どんな言葉を使って呼びかけたらいいのでしょうか。

玄侑 うーん、それはむずかしいですね。ただ、今申し上げた現在完了形は、自律訓練法などでも行われていますし、そもそも、お経ですでに実践されている方法です。
お経に多く使われる言葉に、「成就した」というサンスクリット語のスヴァーハがあります。般若心経だと「薩婆訶」という言葉になりますが、お経の中で何度も繰り返されます。まず願いが唱えられ、それが成就した成就したと繰り返される。成就したというのが、祈りの最も有効な方法なんですね。
たとえば、家族が病気をしませんように、と祈ってはいけないんです。それは無理なことですから。家族が病気でも、病気の本人も私も心安らかであるという状態をまず願う。そして、それが成就したと繰り返すのです。母が病気なのに、母も私もこんなに安らかである。ありがたいことです、というふうに。頭の中の言葉として言ってしまうのです。
脳には絶大な権力がありますから、脳がそう思うと体が従っていくわけです。成就したかのように体がつられて動く。というのを、方法として使っているのでしょうね。

鎌田 ああなるほどねえ。今納得したのは、僕が『がんばらない』という本を書いた1つのきっかけは、まだ青年医師だったころの体験でした。40代の末期がんの女性の患者さんに「頑張りましょうね」といったとき、その女性はさんさんと涙をこぼして、『先生、今日までがんばって、がんばってきました。もうこれ以上、がんばれません』とおっしゃったんですね。
いわれてみて、がんばろうという言葉が患者さんにはプレッシャーだったとわかりましたが、では何と答えればよかったのか、わかりませんでした。20年くらいたってから、「あなたはがんばってきたよね」と言ってあげたらよかったと思いついたのですが、今おっしゃった現在完了形も、それに近いのではないでしょうか。
「がんばってきたよね」はその人の人生を認める言葉であり、「がんばろうね」は、あなたのがんばりが足りないから病気が治らないと、責める言葉なんですね。

玄侑 完了形は過去を全部肯定し、大地を固めるといいますか、その大地の上に力強く立つ方法なんだと思います。しかも、何々でありますようにとは祈らない。「ありますように」は、未来を縛ることだからです。
神道でも仏教でも、「清らか」という言葉は大事ですが、「何々でありますように」がないのが清らかなんです。だから、むずかしい。清らかさと涼しさは、目標にした途端に離れてしまう。頑張って熱くなるのは簡単ですが、清らかさや涼しさは目標にしてはいけない。目標にしたとたんに、清らかでも涼しくもなくなるんです。

鎌田 うん、なるほど。

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