「この病気と闘うぞ。絶対勝つぞ」 “根拠なき成功への確信” がありました 前宮城県知事・浅野史郎 × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成●江口 敏
発行:2013年2月
更新:2018年9月

ATLの急性転化で骨髄移植を勧められる


夫人の献身的なサポートで病を克服した浅野さんを自宅に訪ね、久しぶりの再会を喜び合う鎌田さん(左)と浅野さん(浅野さんの自宅庭にて)

鎌田 そこでいろいろ調べたわけですね。

浅野 いや、私は臆病だったと言うか、調べなかったんです。妻がいろいろネットなどで調べてくれました。ただ、ATLになったら助からないとか、治療法も確立されていないとか、ネットにはいろいろ恐ろしい情報も出ています。ATLという病気は1978年に発見された病気ですから、まだ30年ちょっとしか経っていないんです。治療法は日進月歩で進歩していますが、ネットにはそれ以前の情報に基づいて、「助からない」などと書いてある。私はミニ移植(骨髄非破壊的同種移植)で助かりましたが、その治療法は書いてないのです。妻はそういう古い情報も見ていましたから、告知されたときのショックは、私より妻のほうが大きかったかも知れません。

鎌田 ミニ移植の情報はどうやって手に入れたのですか。

浅野 告知を受けたときに、東北大の血液内科の張替秀郎先生から、「これは骨髄移植でしか治りません」と言われました。私はそれをマイナスとして受け止めましたが、妻は「60歳を過ぎていても、骨髄移植ができるんだ」とプラスに受け止め、「これは治るんだ」と思ったようです。そして、張替先生から国立がん研究センターを紹介していただきました。

鎌田 それですぐに国立がん研究センターへ行ったんですか。

浅野 いや、それとは別途に、妻がネットで調べたり、私の友人の情報で、東京大学医科学研究所附属病院にATLの専門科があると知り、妻が東大医科研に電話をしました。担当の内丸薫先生に、東北大での検査データなどをお話したところ、「明日来なさい」と言われ、翌日東大医科研に行ってすぐに入院を決め、6月4日に入院しました。

鎌田 東北大での告知から、東大医科研に入院するまで、10日足らずですか。結構急を要したわけですね。

浅野 そうです。ATLは急激に進むということで、タイミング的にはピッタリだったようです。そのときでも、自覚症状はまだゼロですよ。2005年からしっかりフォローしてきたから、何とか助かったわけです。

「ATLネット」立ち上げ地方の患者さんを救う

鎌田 浅野さんは厚労省OBで、前宮城県知事ですから、すぐに入院できたのではないかとも思いますが、東大医科研は一般の人でもアクセスできますか。

浅野 できます。私は今、「ATLネット」というサバイバーの会をやっています。たまたま私と同じ時期に同じ先生にかかって、ATLを克服した人たちの会です。皆さんごく普通の人で、病院の紹介で来た人、私のように自分で東大医科研を見つけて来た人、いろいろです。私が決して特別扱いされたわけではありません。

鎌田 内丸先生の診察を受けるには、普通に予約で申し込めますか。

浅野 東大医科研のネットにアクセスして予約できます。余談になりますが、私は治療後、恩返しをしなくてはと思って、先ほど言った「ATLネット」の中で、ATLに関するさまざまな情報交換を行っていますが、その仲間が20名ほどいます。

鎌田 どういう人がメンバーですか。

浅野 闘病中の人やその家族、HTLV-1ウイルスが陽性の人、そしてATLで亡くなった人の遺族もいらっしゃいます。 先日、そのATLネットを通じて、山口県のGさんから「主人がATLを発症したが、山口県にはいい病院がない」とメールが入りました。私はすぐに、東大医科研の内丸先生を紹介しました。その後、Gさんのご主人は国立がん研究センターに転院し、骨髄移植を受けられました。ATL治療が十分でない地方の患者さんでも、私が間に入ることによって、いのちが助かるのではないかと、意を強くしました。

鎌田 ATLネットがもう少し広がりを持てば、多くの人を救えるでしょうね。

浅野 ATL治療については、情報が足りないどころか、医療機関でさえよくわかっていない面がありますからね。1978年より前の大学の医学教育では、ATLについて教えられていません。ATLが発見されたのが1978年ですから、当然ですよね。医学部教授さえ知らなかったのですから。

顔がパンパンに腫れお地蔵さんみたいに

鎌田 ATL治療については、骨髄バンクの充実が欠かせません。浅野さんは偶然、ピッタリ合う人がいて、提供してくださったということですね。

浅野 ATLの患者さんに対するミニ移植については、日本でいちばん多くの症例を扱っておられる、国立がん研究センターの田野崎隆二先生に当たったことが、まず幸運でした。それから、ヒト白血球抗原型(HLA)が私と完全に一致するドナーさんを捜さねばなりません。HLAにはA座、B座、C座、DR座がそれぞれ2対、計8座ありますが、親族に一致する人はいない。それで骨髄バンクで調べたところ、完全に8座とも一致する人が1人いらっしゃることがわかりました。私はそれほど心配していなかったのですが、妻は喜びましたね。

鎌田 ミニ移植自体はつらかったですか。

浅野 骨髄移植という名称があまり良くないと思います。本当は骨髄液移植なんですよね。骨髄移植と言うと、心臓移植や肝臓移植と同じような印象を与えますが、実際は輸血と同じようなものですからね。骨髄移植を受けた患者さんが大変なのは、移植を受けたあとです。身体的につらかったですね。今も少し引きずっていますけど。

鎌田 ミニ移植では抗がん薬も使いますが、それがつらかったのですか。

浅野 市川團十郎さんは抗がん薬治療のつらさを「無間地獄」とおっしゃってますよね。そういう苦しさがあると聞いていたので、抗がん薬投与を受ける前に、主治医の先生に、「大変らしいですね、吐き気がすごくて」と訊いたら、「大丈夫だよ、浅野さん。今はもう抗がん薬も改良されてるし、吐き気止めの点滴も一緒にやるから」と言われました。ですから、全身点滴もそんなに大変ではなかった。ホントに大変だったのはそのあとです。実際はその大変さをあまりよく憶えていないんです。その頃毎日書いていた日記が、その時期だけ空白なんです。

鎌田 書けなかった?

浅野 書けないほど大変だった。たしかに、肺に水がたまって、ものすごく痛かった。妻が言うには、「顔がパンパンに腫れてお地蔵さんみたいだった」ようです。酸素吸入もしました。息苦しいと言うより、肺も内臓も痛かったですね。その痛みのピークが1~2週間続きましたかね。

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