必ずメキシコの砂漠を走ってやるという目標が精神的支えになりました 作家/映像ディレクター・戸井十月 × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成●江口 敏
発行:2013年3月
更新:2019年7月

抗がん薬・放射線治療後に砂漠のレースに出場


「がんを克服して、これからも不良少年の鏡として活動を続けてほしい」と話す鎌田さんに苦笑する戸井さん

鎌田 東日本大震災から間もないころですよね。

戸井 1カ月後ですね。大震災直後は、阪神大震災のときの経験から、被災地では小さなバイクが役立つとわかっていましたから、ホンダにスーパーカブを提供してもらい、オートバイレスキュー隊を編成して、道路が寸断された被災地に入る計画を進めていたのですが、当の本人が肺がんを宣告されてしまい、実現できなかったわけです。本当に残念でしたが、治療に専念せざるを得なかった。そして、抗がん薬と放射線治療を約半年やったわけです。

鎌田 それで消えた!

戸井 消えました。放射線治療をやったあとの、間質性肺炎みたいな症状はありましたが、9月の段階でがんが消失しました。それで、11月のバハ・カリフォルニアのレースに行くぞ、ということになった(笑)。

鎌田 常識的には、無茶苦茶ですね(笑)。

戸井 乱暴だということはわかっていたけれど、肺がんの治療を始めた時点で、何か目標を立てようと思ったんです。それで、秋に仲間たちとメキシコの砂漠へ行くぞ、と決めたわけです(笑)。

鎌田 テレビで砂漠をオートバイで疾走する戸井さんの姿を見て、さすが不良少年だなぁと思った。

戸井 がんを宣告された時点で、64歳になるから、先のことはわからないけれども、今回すぐに死ぬとは思わなかった。今回は乗り越えられるという自信がなんとなくありました。それは現在もある。だから、それほど深刻ではなかったんです。

治療中は断続的につらい時期もあったんですが、必ずメキシコの砂漠を走ってやるという目標が、結構、精神的な支えになりましたね。

骨折してリタイアも全然、後悔してません

鎌田 ドクターはすんなり許可してくれたんですか。

戸井 「メキシコに行ってもいいですか」という話はしましたが、「砂漠をオートバイで走る」という話はしなかった(笑)。オフロードバイクの話は、その世界を知らない人に言ってもわからないだろうし、言えば止められると思いましたからね。実際、オフロードバイクで砂漠を走るなんて、ものすごく体力が要るんです。しかも、バハ・カリフォルニアのレースは、世界一過酷なレースと言われています。病み上がりで肺活量が落ちているような状態では、まともなレースはできなかったですね。

鎌田 かつての戸井十月だったら、乗り越えられた?

戸井 と思います。岩山のガレ場を登って行くときなど、普通でも息が切れるんですよ。間質性肺炎になっているわけですから、余計に息が切れる。その上、微熱もあるわけですから。

鎌田 奥さんから「いい加減にしなさい」って言われるわけだ(笑)。

戸井 メキシコの砂漠のレースは、33歳のときから通算して10回出場しているんです。がんと半年闘って、仲間と協力して、またその砂漠に立つことができれば、がんにも克てる。そう思ったんです。それで、カミさんも「しようがない」って行かせてくれて、後を追って応援に来てくれたんですが、現地に到着したときには、もう骨を折っていたわけですから、呆れ果ててましたね(笑)。

鎌田 骨折のおまけが付いちゃったけど、レースに行ったことについては、自分のためになったと思ってる?

戸井 ものすごくためになったと思いますね。メキシコから戻ってきて、年明けの1月ぐらいから腫瘍マーカーが少し上がってきたとき、「メキシコなんかに行って、ストレスを増やしたから、せっかく良くなっていたのに、またがんになったんだ」などと、言う人もいました。

しかし、仮にそうだったとしても、最初の大きな白い影が無くなっていくプロセスの中で、自分を鼓舞する目標を持っていたというのは、精神的に役立ったと思います。また、いつかがんが再発することは覚悟していたし、がんという病気はそういう病気だと思っていますから、再発と言われてもショックはあまりないし、それは決してメキシコに行ったせいではないと思っています。全然、後悔はしていません。

アレルギー性ショックで半分、幽体離脱状態に

鎌田 2012年1月に再発してからは、どういう治療をしたんですか。

戸井 基本的には抗がん薬治療です。2回ほど薬を変えたんですが、あまり効かなかったんです。そのうちに胸膜に転移し、胸水が溜まるようになった。そのころが、自覚症状的にもいちばんヤバかったかなぁ。胸水が溜まって呼吸が苦しいから、水を抜く。そのとき、胸水が溜まる部分にわざと炎症を起こして、フタをしてしまうやり方があるんですね。

鎌田 そう。胸膜は2つあって、その間に炎症性の水が溜まりますから、その間を癒着させて、水が溜まるスペースを無くす。

戸井 そのわざと癒着させる治療をやったんです。そうしたら一種のアナフィラキシーショック(I型アレルギー反応の1つ)になっちゃった。

鎌田 意図的にアレルギーを起こさせるわけですからね。

戸井 私は今まで、何でも大丈夫でしたが、そのときは体温が41度ぐらいにまで急に上がり、呼吸が苦しくなって、血圧もバーンと上がりました。そこでステロイド剤を一気に打ち込まれたら、ものの2~3時間で回復したんですが、その2~3時間の間は、あぁここで死ぬな、と思いました。

鎌田 蜂に刺されて亡くなるのはそれですね。1~2時間を超えれば何ともないですけれどね。

戸井 意識が無くなることはなかったんですが、現実感が無いというか、何か半分幽体離脱してるような不思議な感じでしたよ。私が回復してからカミさんが駆けつけたので、「俺、いま死にそうだったんだよ」って言ったら、カミさんが冗談で、「また大袈裟なんだから」と言って、先生や看護師にものすごい目で睨まれてましたね(笑)。カミさんも、私がふだん「死にそうだったよ」なんて冗談をよく言うものだから、またそれだと思ったようですが、あまりにもタイミングが悪かった(笑)。

鎌田 病院のスタッフは戸井さん夫妻の日常会話を知らないわけですから、そりゃ驚くでしょう(笑)。

戸井 その後は癒着療法は慎重にすることにし、胸水を抜くだけの対症療法を通院で行いました。胸水を抜く治療がひと段落した7月ごろ、胸椎のいちばん下の第12胸椎にがんが浸潤してきて、骨の中の神経が圧迫されて、腰がキリキリ痛くなりました。痛み止めは効かないし、そのときはさすがにダメかなぁと思いましたね。仕事にも集中できないので、痛いのはとてもイヤなんですよ。

それで先生と相談し、初心に戻って強い抗がん薬を使おうということになり、アバスチンという分子標的薬と、その他2つの薬を使った抗がん薬治療を、2クールやりました。その後は抗がん薬はアバスチンだけにし、放射線治療もやっています。

鎌田 放射線は、すでに肺には当てていますから、骨に当てているわけですね。

戸井 10回だけ骨に当てました。その結果、ほぼ消えたようです。浸潤していた黒い部分が無くなり、穴になっていた部分にカルシウムが溜まってきている。胸膜にあった影も、胸水も無くなりました。

アバスチン=一般名ベバシズマブ

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