がんは「長く生きる」だけでなく「どう生きるか」が大切 医者が患者になって初めて見えてきたことがある・海老原 敏さん

取材・文:崎谷武彦
発行:2004年10月
更新:2013年4月

生き方の問題として抗がん剤治療を断る

「これは大腸がんに違いない」 そうピンときた海老原さんは、しかし大腸がんの検査ではなく肺と肝臓の検査を受けた。大腸がんは肺や肝臓に転移することが多いからだ。つまり海老原さんはまず転移の有無を確認したのである。

「そのころはがんが見つかったら何がなんでも手術しようというのが外科医の習性でした。でも私はもし転移があったら、外科治療は諦めるつもりでした。だからまず転移があるかどうかを調べたのです」

初めて患者として受診したがんセンターの外科では、「ポリープがあるので手術しましょう」といわれた。それに対し海老原さんが「ポリープくらいで手術することに同意すると思うか」と返すと、担当医はしぶしぶとがんであることを認めた。

子供のころから豚の脂身が大好きで、30代以降も肉を中心にした食生活を変えていなかった海老原さんは、「いつかは大腸がんになるだろう」と以前から思っていた。がんの専門医だから、末期の大腸がんは貧血で発見されることが多いことも知っていた。だからこのときは「死のほうが確率が高い」と思っていた。手術の前の晩には、預金口座など資産に関する記録をすべてワープロで打ってフロッピーに保存し、「何かあったときは家族に渡してくれ」といって友人に託してもいる。死を覚悟して身辺整理をしておいたのである。

手術後には外科はもちろん内科や病理などすべての医師が口をそろえて化学療法を勧めたので、「多分、助からないだろう」とますます思うようになった。ただそれでも化学療法は受けなかった。

「これは生き方の問題です。骨肉腫など抗がん剤で明らかに治療成績の上がるがんもありますが、大腸がんの場合、明らかによくなるという証拠はその時代にはありませんでした。しかし逆に抗がん剤治療をしている間の辛さは確実にあります。そういうことを総合的に考え、自分も外科医ですから外科手術にかけることにしたのです」

手術後8日目にはもうメスを握っていた

写真:草津の別荘の前で

静かに死を迎えようと思い、購入した草津の別荘の前で。今は病院のスタッフが泊まりに来てにぎやかに過ごす

海老原さんはこのしばらくあと、草津に別荘を買っている。毎日そこで好きな本を読み、気が向いたら温泉に入り、痛みが出たら母校である群馬大学の分院からモルヒネを出してもらい、静かに死を迎えようと考えていたのである。残された時間が余りないと考え、建て売りの別荘を急いで買ったというから、自分のがんがかなり深刻な病状にあると見ていたのだろう。

もっともだからといってすっかり落ち込んでいたわけではない。それどころか手術から8日後には主治医や同僚の反対を押し切り、自分の担当している患者の手術を執刀している。だから、むしろ意気軒昂といったほうがいいくらいだろう。

「以前からスケジュールが決まっていて、患者さんにも私が責任をもって手術をしますと約束していましたから、他のドクターに代わってもらうわけにはいきませんでした。病棟の医長は『おれのクビが飛ぶ』といっていましたよ(笑)。まだ体に管が8本くらい入っている状態で、さすがに立っているのが辛く寄りかかりながらの手術でした」

このときの体験で海老原さんは、医師としていくつかのことに気づかされた。もともと医療は病院のためでも医者のためでもなく患者のためにあるものだと考えていたし、常に患者の立場に立って考えるように努めていた。しかし実際に患者になって初めて見えてきたこともあった。

「若いときは、喉頭がんは喉頭を取れば治ると考えていました。だから喉頭を取るのが嫌だという患者さんには『それでは命を落としますよ』といっていましたし、それでも嫌だという患者さんのことは『なんて話の分からない人だろう』と思っていました。でも自分ががんになってみたら、そこまでして治療しなくてもいいという気持ちも分かるようになりました」

手術後も変えなかったライフスタイル

写真:阪神淡路大震災のときは医療ボランティアに参加

95年、阪神淡路大震災のときは医療ボランティアに参加。小学校の放送室を医務室代わりにした

海老原さんは機能温存手術をライフワークとしている。頭頸部がんの場合、手術でがんそのものは治しても、味覚や声を失うこともある。それで本当に治したといえるのか、という疑問を持つ海老原さんは、部分切除でなるべく喉頭などを残すようにし、全摘したときも他の部位の筋肉などを使って再建する手術に取り組んでいるのだ。自らもがんを体験したことが、そうした機能温存手術への信念と情熱を一層確かなものにしたであろうことは想像に難くない。

ほかにもある。たとえば入院中、海老原さんは看護師が深夜に病室を見回りにくる度に目が覚めてしまった。それで不眠になり、薬を飲んでいる患者がいることも知った。だから今は手術直後の人などを除いて比較的元気な患者に対しては、そういうことは必要ないと考えている。

また廊下を歩く女性のヒールの音がうるさくて目が覚めてしまうこともあった。そのためがんセンターの東病院ができたときは、床にカーペットを敷くことを提案した。築地のがんセンターも建て直すとき床は全部カーペット敷きになっている。

幸い、その後海老原さんのがんは再発することも転移することもなかった。けれども手術から4年半が経過し、もう大丈夫と思った矢先に今度は腹部動脈瘤破裂に見舞われた。それも医療関係の集まりに参加している最中にである。「いろいろ準備できるからがんもそう悪い病気ではない」と思ったのはこのときのことだ。

海老原さんはがんの手術をしたあとも、ライフスタイルを変えなかった。若いときほどではないにしても食事はやはり肉が多かったし、仕事も相変わらず忙しく酒も飲んでいた。

「人間は何のために生きているかといえば、がんにならないためにではないですよ。それなのにあれが心配だこれが心配だといってしょっちゅう医者にかかっていたら、それは人生にとって無駄ではないですか。だから2年に1度だけ検査をするとか、そういうふうに割り切ったほうがいいですよ。それに食生活を変えたりいろいろなことをしても、がんにならないという保証はありません。だったら自分がどうやって生きるかは自分で決めればいいじゃないですか。私は患者さんにもそういっています」

本当に大事なのは生存率ではなく“生存質”だ

動脈瘤が破裂したときも海老原さんは死を意識した。しかし手術後は順調に快復し、がんのときと同じように退院後はすぐ職場復帰した。その後、大きな病気はしていない。

今年、自分の診療所をオープンさせた海老原さんは、将来は都心で緩和ケア施設も開きたいと考えている。空いているビルを利用したり、ホテルの客室を10室から20室程度借り、同じフロアに診療所も開く。患者は普段、ホテルで快適に過ごし、必要なときにだけ診療所を訪れたり薬を出してもらうというプランだ。

「これからのがん治療は、どれだけ長く生きたかではなく、どう生きることができたかで語られるべきなのです。生存率ではなく“生存質”ですね。だから末期でも動ける間はホテルで暮らし、夜中にビールが飲みたくなったらルームサービスを頼む、そういう選択肢があってもいいと思います。1年間ホテルで生活するのでは経済的に大変ですが、最期の2、3週間だけそういう生活をしたいと思うのなら、たいていの人ができるのではないですか」

診療所は今のところ赤字だ。けれども開業前に海老原さんが「患者さんが少なくて2年間くらいで退職金を全部使い切ってしまったら、自宅を利用してでも続けよう」と思っていたほど厳しい状況ではない。

「これならなんとか5年間くらいは続けられそうです」

海老原さんのことだからきっとその間にも、緩和ケア施設のプランを実現するためにいろいろ動きまわるのだろう。がんと向き合う海老原さんの忙しい日々はまだ当分の間続きそうである。

1 2

同じカテゴリーの最新記事