あるがん患者さんから生まれた言葉が種となり、歌という名の花が咲いた 「一粒の種」になった命が今、生きることのすばらしさを教えてくれる

取材・文:常蔭純一
発行:2009年10月
更新:2014年1月

引き継がれたバトン。そして、奇跡が起こった

CD「一粒の種」

「一粒の種」砂川恵理歌
定価\1,000発売中
(よしもとアール・アンド・シー)
「愛する者を失って 今日をまた生きていく私たちに」
ある遺言から生まれた命の唄
「一粒の種」の売上げの一部は「ホスピスケア研究会」に寄付し、“がん”のよりよい終末期医療の普及発展と、患者さんとその家族の心身のサポートに役立てられます

中島さんはその後も高橋さんのなかで「一粒の種」として、生き続けていた。中島さんの死後、高橋さんはライターとして参加するメールマガジンに「一粒の種」を発表する。と同時に中島さんの老いた両親にもその詩を送り、文通を始めるようになった。

中島さんの他界後、両親は落ち込みを続けていた。母親は中島さんの死のショックから脳梗塞を起こし、自力では食事も発語もできない寝たきりの状態に陥っていた。その妻を看病する日々を父親は「1人で話し、1人で笑い、1人で泣く道化師のような毎日」と高橋さんに書き送っていた。

両親を元気づけたいと願った高橋さんは、友人を通して知り合った同郷の歌手、下地勇さんに「一粒の種」に曲をつけて欲しいと願い出る。そうして「生を希求する心のリレー」のバトンは下地さんに引き継がれた。

1年後――。高橋さんのもとに、1枚のCDが送られてきた。下地さんのギターの弾き語りによる、「一粒の種」だった。

「下地さんらしい、優しい気持ちに溢れていました。聴く人の気持ちを温かくしてくれる、素晴らしい曲でした」

作品に感銘を受けた高橋さんは、すぐにその曲をダビングして、中島さんの両親に送付する。

そして、奇跡が起こった――。

父親が病床でその曲を聞かせると、まったく発語ができなかった母親が「誰が歌っているの」と、たずねたのだ。

「中島さんの強い思いが両親に伝わった。私は、そう確信しています」

老健施設で知った歌の力

写真:砂川恵理歌さんと高橋尚子さん

09年7月25日に行われたホスピスケア研究会のライブでは、「一粒の種」を歌った砂川恵理歌さん(右)が、客席にいた「一粒の種」を作詞した看護師・高橋尚子さんをステージ上に呼び、談笑する一幕も

写真:沖縄県南城市にある特別養護老人ホーム東雲の丘で開催されたライブ

沖縄県南城市にある特別養護老人ホーム東雲の丘で開催されたライブ

下地さんから「心のリレー」のバトンを引き継いだのは、やはり沖縄県宮古島出身の歌手、砂川恵理歌さんである。砂川さんもやはり、これまでの人生では何度もの紆余曲折があった。

子どもの頃から歌が好きで歌手になりたいと願い、高校卒業後に上京。アルバイトの傍ら、オーディションを受け続けるものの思いを果たせず、20代半ばで沖縄に帰郷する。そうして「人のためになる仕事を」と、ある老健施設で介護スタッフとして働き始めた。しかし、歌への思いを断ち切ろうと働き始めたその施設で思い知らされたのは歌の持つ底知れない力だった。

「脳梗塞で倒れて発語できない60代の女性に、よかったら一緒に歌ってねと、その人が大好きな『上を向いて歩こう』を歌い始めると、天井を見る目に涙をため、途切れ途切れに一緒に歌ってくれた。この人はこれまで心の中で何度、この歌を歌ったのだろう。そう思うと、歌の持つパワーに圧倒されざるを得ませんでした」

再び歌の道を志すきっかけになったのは、その施設で働き始めて2年後、沖縄で開催されたテレビ番組の「のど自慢」だった。その頃、施設ではインフルエンザが猛威を振るい、施設全体が沈滞していた。入所者に笑顔を取り戻させたいと願う砂川さんは、そのきっかけになればと「のど自慢」への出場を決意する。

その当日、ほとんどの入所者がテレビの前で砂川さんが歌う「飛び方を忘れた小さな鳥」に聴き入っていたという。そして、その日から施設には再び笑い声が飛びかい、歌の持つ力に魅入られた砂川さんは、再びオーディションに挑み、歌の世界に飛び込んでいった。

夢叶い、デビューを果たしたものの、砂川さんは「歌を通して何を伝えていくか」を迷い続けていたという。かねてからつき合いのあった下地さんから、「一粒の種」が収められたメディアを手渡されたのはそんなときだった。砂川さんは体力づくりのためのジョギング中に初めて「一粒の種」を聴いたという。

「走りながらずっと泣き続けていました。ジョギングを終えたときには、私がこの歌を歌うと決めていた。この歌と出会うために、自分はこれまで遠回りを続けていたと思ったのです」

歌うことが「一粒の種」になる

写真:「スマイル・シード・プロジェクト」の幕

「一粒の種」発売と同時にスタートした医療施設等を訪問するチャリティコンサートプロジェクト「スマイル・シード・プロジェクト」の幕。色々な施設を周るたびに、寄せ書きは増えていく

今、砂川さんは「スマイル・シード・プロジェクト」というコンサート活動を通して、学校、病院、福祉施設などでこの歌を届け続けている。それはささやかだが、確かな手応えをともなったふれあいの場でもある。

「生徒を不慮の事故で亡くした先生がこの歌を聴いて、生きる力が湧いてきたといってくれたこともあるし、抗がん剤治療を続けているためウイッグ(カツラ)をつけているがん患者さんから『姿は変わっても忘れないでね』と訴えられたこともある。この歌を歌うと、必ず誰かが自らの状況やその時々の気持ちを伝えてくれます。そして、そのたびに私はいろんな人たちの人生を学び、この歌を届けることの大切さを実感する。私にとっては、こうした心のやりとりこそが一粒の種になっています」

砂川さんは、今を戦うすべての人にこの歌を聴いて欲しいという。そして、それがその人の心のどこかにしまいこまれている一粒の種を見つめ直すきっかけになれば、ともいう。

1人のがん患者が発したささやかなメッセージは、大きな渦となって広がり続けている。中島さんが撒いた小さな種は、たくましい樹になり、きれいな花を咲かせようとしている。それはこの歌に自らの希望を託した人たち、そしてその希望を共有したいと願う人たちの思いの強さ、大きさを物語っているに違いない――。

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