母乳の研究からマイクロRNAをがん診断に使うバイオマーカーの発想が生まれました 落谷孝広 × 鎌田 實 (前編)

撮影●板橋雄一
構成/江口 敏
発行:2015年1月
更新:2018年8月


母乳で証明しようとしたマイクロRNAの重要性

鎌田 細胞間のコミュニケーションや、親子のコミュニケーションなども、マイクロRNAが行っているらしいですね。

落谷 そうです。マイクロRNAが人間にとって重要な働きをしていることが次第にわかってきました。ただ、ゴミと思われていたマイクロRNAを、がん診断に活かす研究を推進するために、79億円という巨額の国費、すなわち税金を使うことがいいものかどうか、少し迷ったことは事実です。ですから、がん診断に活かす研究をする前に、マイクロRNAは大事だとわかってもらえる研究をやろうとしたんです。それは何かと言えば、母乳に関する研究でした。

母乳はお母さんが赤ちゃんに最初に与える大事なものです。母乳の中には、赤ちゃんを外界から守るために、IgG(免疫グロブリンG)、IgA(免疫グロブリンA)という免疫そのものが入っていて感染防御している。

もし、母乳の中にマイクロRNAがあり、赤ちゃんの体の中で機能していれば面白いと思ったわけです。

鎌田 それを調べたんだ。まだ話は本論に入っていないんだけれど、どんどん面白くなりますね(笑)。

落谷 赤ちゃんが育たない理由はいくつかあって、ひとつには肺の形成ができないことが挙げられます。実は、私たちは、肺などの臓器の形成に重要だと思われるマイクロRNAが存在することを、以前からある程度知っていたんです。

鎌田 へぇー、そうなんですか。

落谷 もしかして母乳の中にそのマイクロRNAが詰め込まれて、赤ちゃんに届けられていたら、これはやはり意味がある。それを調べてみようと思ったんです。だから、母乳をいただいてきて調べてみました。見事にマイクロRNAがあったんです。そのとき世界で誰も知らなかったことです。

鎌田 肺の臓器形成に重要なマイクロRNAがあったんですか。

落谷 いや、実はそれはなかったんです。そこでひとつ、がっかりしました。臓器の形成に重要なマイクロRNAの存在の他に、母乳に関してもうひとつ予測がありました。それは母乳の水分は血液から来ているという点です。その時点で、マイクロRNAは細胞の中だけではなく、血液中にもあることがわかっていました。母乳の水分が血液から来るんだったら、血液中のマイクロRNAがそのまま赤ちゃんに持ち込まれてもいいだろう、と思ったんです。それを調べてみて驚いたのは、血液中のベースにあるマイクロRNAは、母乳中にまったくなかったことです。

乳児の免疫を発達させる 母乳の中のマイクロRNA

鎌田 えぇーっ! じゃあ、赤ちゃんのためだけのマイクロRNAがあったの?

落谷 マイクロRNAは番号がわかれば、大体機能がわかるようになっているんですよ。そこで母乳の中にあって血液中にないマイクロRNAを調べてみたら、赤ちゃんの免疫系を発達させる機能を持つマイクロRNAが、どっさりあった。これにはすごく驚きました。つまり、お母さんはそれと知らないけれど、母乳を通して赤ちゃんの腸管にマイクロRNAを届けて、赤ちゃんの免疫を発達させていたのです。

鎌田 ということは、母乳で育てられている赤ちゃんのほうが、免疫の基礎ができあがっているということですね。

落谷 母乳が大事だというのは、そういうことなんです。

鎌田 私の諏訪中央病院は、ユネスコから「赤ちゃんに優しい病院」に指定されていますが、ユネスコは世界中で、母乳で赤ちゃんを育てることを指導しています。ユネスコは主に途上国に対して母乳による育児を指導しているわけですが、日本でも、母乳によって強い子どもを育てることができることは、広く浸透していますね。

しかし、ユネスコの人たちも、そういうエビデンス(科学的な根拠)は知らないと思いますね。マイクロRNAの話をアピールすれば、母乳による育児の重要性は世界的にもっと広められるでしょうね。

落谷 これまで世界中の研究者が「人工乳」をつくろうとしたんですが、母乳にはどうしてもかなわなかった。彼らはタンパク質、脂質、ミネラル、糖質など、全部入れたはずです。しかし、マイクロRNAが入っていなかった。

母乳のマイクロRNAは離乳とともになくなる

鎌田 そうか。アミノ酸はつくることはできても、マイクロRNAは入れられないんだ。

落谷 次は母乳のプロである森永乳業の研究所に協力してもらうことにしました。森永乳業に24人分の母乳のストックがあり、すぐに持ってきていただいて検査をしたところ、20例に免疫を発達させるマイクロRNAが検出されたんです。

そして、そのマイクロRNAは6カ月でなくなることがわかった。6カ月というのは、離乳が始まる時期なんです。これは意味があると感じましたね。

鎌田 6カ月で赤ちゃん自身に自分の免疫ができてくるんでしょうね。

落谷 いずれにしても、母乳の研究で細胞の外に分泌されるマイクロRNAが重要なことがわかったんです。

マイクロRNAは細胞から分泌され、細胞の中で働いているんですが、それが上がったり下がったりしており、がんの診断に重要な役割を果たすことがわかってきました。そこからマイクロRNAをがん検診に使うバイオマーカーの発想が生まれてきたのです。

鎌田 落谷さんの研究分野はめちゃめちゃ面白いですね。いやぁ、前説だけでここまで来るとは思いませんでした(笑)。

落谷 冒頭で鎌田さんがちょっと触れられましたが、現在、日本では、42の腫瘍マーカーを血液で計っています。これだけの腫瘍マーカーをやっている日本は、世界でも特殊な国です。

アメリカなんて、保険かけていない人がいっぱいいますから、それだけの腫瘍マーカー検査はお金がかかりますし、腫瘍マーカー自体が信頼性にも欠けますから、やっていない。大腸がん検診の便潜血反応は1ドル57セントでやっているようですが。

鎌田 アメリカはエビデンスが明確でないものはやらない。ものすごくシビアです。日本は少しでも役に立ちそうだと思えば、それに幻想を抱く傾向があります。だから、腫瘍マーカーにこだわりますよね。

落谷 従来からの42種類の腫瘍マーカーのほとんどは、がん細胞、がんの組織の表面に出てくるタンパク質です。これはがんに必ずしも特異的な目印というわけではなく、ときには正常な細胞からも、あるいは「がん」でない良性疾患の場合でも検出されてしまうことが問題なのです。状態と比較すれば、がんのデータが取れてしまうわけです。だから、それを腫瘍マーカーにしているんです。

鎌田 では、次号では、現在使用されている腫瘍マーカーの問題点から、世界的に注目を集めているマイクロRNAを活用した新たな腫瘍マーカー、バイオマーカーの仕組み、その有効性についてうかがいたいと思います。

「乳がんのバイオマーカーは2015年を目途に完成します」と話す落谷さんに「そうなると乳がんの治療法も変わりますね」と鎌田さん
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