たとえがんであっても生きてさえいればいい 並木秀之 × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成/江口 敏
発行:2015年3月
更新:2018年8月


債権者に壇上から土下座し 人の嫌がる仕事も積極的に

鎌田 それにしても、先天的な重い病気を持ちながら、社会へ出て会計事務所で働き、その後、バブル崩壊後に100社以上の破綻処理を行い、今もファンドマネジャーとして活躍されている。すごいですね。

並木 いや、私もいろんな失敗をしてきましたよ。「1,000万円が1億円になる」と言われ、オープン前のゴルフ会員権を買ったら、オープンする前に破綻し、紙屑と化したことや、奄美大島で障害者の人たちと果樹園をやろうとして失敗し、奄美大島の人たちに迷惑をかけたことなど、むしろ失敗の連続だったと言えるかも知れません。

鎌田 一時は38億円もの資産家だった並木さんも、いっぱい失敗してるんだ(笑)。

並木 いや、その当時は自分には才能があると、ちょっと思いました(笑)。だけど、それはやっぱり、バブルのお陰でしたね。運が良かったんです。ただ、もし私に他の人より少し秀でている部分があるとすれば、度胸でしょうかね。しかし、それも結局、生きてきた中で身についたもの、経験によって培われたものなんです。それと、私は自分の身体を含めて、自分に能力的なものがないものですから、人が嫌がるようなことを嫌がらずにやってきた。それが良かったんだと思います。

鎌田 人が嫌がることというのは、土下座ですか。

並木 私は大東文化大学を出て、トーマツ傘下の会計事務所に入りました。周りは有名大学出身のエリートばかりです。あるとき渋谷公会堂で、倒産会社の債権者に対する説明会が、トーマツが代行を引き受ける形で開かれました。そのとき、大学の教授も務めていた私のボスが、キャップとして出席しました。

当時、そうした説明会では、出席した債権者に対して、企業側が全員、壇上で土下座して謝る〝儀式〟が行われていました。私は自分がご迷惑をかけたわけではないけれど、自分も会社側の1人として、仕事として債権者の方々に誠意を込めて謝罪することに心から納得し、素直に深々と土下座しました。ところが、隣にいたボスはキャップでありながら、手をぶるぶる振るわせて土下座していたのです。そのとき私は、この仕事は自分に向いている、と思ったんです(笑)。

鎌田 そういう人が嫌がる仕事を率先してやる人は、会社でも重宝されるでしょう。

並木 いわば土下座業務の専任になったわけです。

入社当初は、熊谷から通勤していましたので、通勤途中で下痢したらどうしよう、会社でトイレに長い時間がかかったらどうしよう、といった悩みがありましたが、そのうちに会社側もこうした仕事の勤務時間は自由で、直行直帰も認めてくれたので、安心して仕事ができるようになりました。

破���企業の整理の仕事で 任俠の世界とつき合いが

鎌田 その後、破綻企業の整理を行う会社を起業したんですか。

並木 27~28歳頃、会計事務所で破綻企業の建物や工場を売却して、整理する仕事を行うようになったんです。破綻した企業の資産を売却して、整理をすると、それが1年で終わろうと、5年かかろうと、何千万円という手数料が入ります。ところが、そこに資産売買を仲介した不動産屋が来て、契約書を1枚つくるだけで、私たちが苦労して得た手数料に匹敵する手数料を持っていってしまうんです。これなら不動産屋の免許も取って、破綻企業整理の会社を起業したほうがいいと思って、32~33歳頃、独立しました。

鎌田 破綻企業の整理をしながら、資産を売る仕事もしたわけだ。

並木 それもこれも、結局バブルのお陰だったんですね。バブル崩壊でご苦労された方々の会社整理と資産売却で儲けさせていただいたわけですから。この仕事は営業を行う必要はほとんどなく、銀行が次から次へと仕事を持ってきてくれました。まさに「他社倒産、自社繁栄」を地でいく世界でした。

鎌田 そんな仕事をしている間に、任俠の世界の人たちとも仲が良くなったんですね。

並木 破綻した企業の人たちは、銀行からお金を借りることができなくなって、最後はその世界の人たちから借りたんですね。整理するとなると、その世界の人たちに担保をはずしてもらう必要があるわけです。そういう関係の資金の元を辿れば、6~7団体に辿り着き、お願いに上がるたびに同じ金庫番の人に会うわけですから、顔なじみになってしまう。

鎌田 その人たちも最後は妥協してくれたんですか。

並木 してくれました。1番抵当、2番抵当の金融機関の金額を削ってもらい、それを3番抵当以下の債権者に少しずつ分配するようなやり方で、何とか納得してもらいました。

鎌田 並木さんの人間性が解決させたんでしょうね。並木さんが白血病になって収入が無くなり、財産の始末をしようとしていたとき、任俠の人たちが結構な額のお見舞いを包んで、見舞いに来てくれたそうですね。

並木 そうなんです。私自身も周りも、みんな私が死ぬと思っていたんです。そのとき任俠の人たちが示し合わせたように、同じ金額のお見舞いを持ってきてくださったんです。当時まだ健在だった母が、「こんな大金、受け取っていいのか」と心配したほどです。ただ、見舞いを持ってきた方は、地位の高い人で紳士然としていましたね。

生活保護受給を決断させた 品川区職員の温情ある言葉

鎌田 怖い目に遭ったことは?

並木 最初行ったときは脅され、怖かったですが、いまだ殺されたことはありません(笑)。運転手さんに100メートル手前で降ろしてもらい、「2時間待っても私が戻らなかったら、警察に行ってくれ」と言い残し、腹を決めて乗り込みましたね。何回も訪ねているうちに慣れてきて、「並木」という名前が通るようになります。

鎌田 そういう修羅場を通って、はじめて「会社整理の名人」と言われるんだ。

並木 確かに一時はそう言われましたね(笑)。

鎌田 その後、並木さんは生活保護を受けたこともあるんですよね。

並木 私が生活保護を受けてもいいと思ったのは、当時住んでいた品川区の担当者が、「並木さん、あなたからはさんざん住民税を取っていますから、それくらいはもらってもいいですよ」と言ってくれたからです。

鎌田 あぁ、それはいい職員ですねぇ(笑)。素晴らしいねぇ。

並木 その言葉にものすごく安堵しました。

鎌田 生活保護は何カ月ぐらいもらったんですか。

並木 半年ぐらい経ったところで、シティバンクから採用の連絡をもらいました。最初はサラ金かと思いましたが、訪ねてみたら、アメリカの本当の銀行でした。その後、独立して、ファンドマネジャーとなり、一昨年の還暦を機に顧問に退かせてもらいました。

鎌田 現在は、がんには完全に勝ったという状態ですか。

並木 勝ったと言うより、がんがあっても生きてさえいればいい、という感じですね。

鎌田 検査ではがんはないんですね。

並木 ありません。本当に運が良かったと思います。

鎌田 きょうは壮絶な生きざまと言いますか、人間の真の強さを教えていただいたような気がします。ありがとうございました。

「私は体を含めて人より劣るものですから、人が嫌がることを嫌がらずにやってきた。それが良かったんだと思います」と話す並木さん
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