鎌田實の「がんばらない&あきらめない」対談 医療法人誠愛会/原町中央産婦人科医院理事長・髙橋亨平さん VS 「がんばらない」の医師 鎌田實

撮影:板橋雄一
発行:2011年10月
更新:2013年9月

被災後1週間診療を続けやむなく閉院したが……

鎌田  先生自身も、患者さんも、命懸けだったんですね。

髙橋  そう。みんな命懸けですよ。その翌日だったか、家内に言われましたよ。「お父さん、自分ががんばるのはいいけど、もしかして、職員は逃げたいんじゃないの。お父さんががんばっているから、逃げられないんじゃないの」と。

震災直後から診療を続けたスタッフの皆さんと

震災直後から診療を続けたスタッフの皆さんと

鎌田  あっ、そういう目もあるんだ!

髙橋  待てよ、そういうこともあるのかって思いましたね。それでその翌日、みんなに「どうだ?」って聞いたときには、みんなキョトンとして、複雑な顔をしていました。それで私は、「よしっ、今日で診療はやめよう」と言ったんです。「名月赤城山じゃないけれど、今宵かぎりでお別れだ。みんな、避難しろ」、そう言って、みんなで抱き合い、記念写真を撮って別れました。

鎌田  最後まで残っていた職員は何人ですか。

髙橋  5人です。

鎌田  それが3月18日……、震災から1週間後ですね。

髙橋  そうです。5人残ってくれたから、震災後1週間、診療を続けることができたんです。そして、私の患者さんだった人の手配で、猪苗代町のオーナーズシステムのリゾートホテルに身を寄せました。

鎌田  先生に生き残ってもらおうという、亨平ファンがいるんだ(笑)。

髙橋  ありがたいことです。ただ、ホテルに入ったはいいけれど、私は持っていったおにぎりしか食う気にならないんです。というのは、テレビで南相馬市の大町病院の食料難の窮状が報道され、その中で病院が患者さんを群馬県の病院まで移送し、医師がそれに付き添っている状況が流されたんです。しかも、職員不足に陥っている大町病院を手伝うために、ウチの職員3人がボランティアで参加しているのが、テレビ画面に映ったんですよ。

鎌田  先生の影響を受けて、みんなやさしいんですね。

髙橋  そういう状況をテレビで見たものだから、居ても立ってもいられないわけです。それで、病院で留守番していた職員と連絡を取りながら、県庁経由で自衛隊に搬送してもらう、薬品類を調達するルートや、会ったこともない経産省の役人の支援で、患者さんを温めるための灯油の手配ルートなどを確認して、3月21日の夜、病院に戻りました。

鎌田  とすれば��ホテルに避難していたのは3日足らずということになりますね。平然と避難生活に安住できないところが、いかにも先生らしい。

髙橋  病院に着くとすぐに、「倒れている人がいるから」という電話が入り、午後10時ごろに往診に行きました。血圧を測ると、260もある。血圧を下げる応急措置をして、なんとか助けることができました。

ガス供給停止の危機を救った経産省の一官僚

鎌田  私が南相馬の桜井市長から要請を受けて、諏訪中央病院から支援の第1陣を出したのが、3月20日でした。ちょうど先生が戻ってこられる前日ですね。

髙橋  あのころはもう全滅状態でしたね。

鎌田  そう。町にはほとんど人影はなく、店は1軒も開いていなかったですよ。院外薬局も全部閉まっていました。私たちは、南相馬市立総合病院から医療用酸素、薬品、発電用重油がないとSOSが入っていたので、内閣官房に電話をしたりして、酸素と重油は自衛隊に搬送してもらう手配をし、薬品は諏訪中央病院から運び込みました。

髙橋  私が戻ってくるとすぐに、NHKで取り上げられたために、「なんだ、亨平先生、戻ってきてるんだ」ということで、患者さんがわっさかわっさか戻ってきたんです。そうしたら、また大変になって……。ガソリンもないし。

鎌田  すごかったですね。ガソリンスタンドを取り巻いて、2重、3重にクルマが並んでいました。

髙橋  いや、ちょうどそのころ、相馬ガスの社長から、「ガスが入ってこなくなったから、公的施設へのガスは止める」という連絡が入ったんです。「ちょっと待ってくれ。それでは病院のライフラインが止まるので困る」と言ったんですが、八戸方面からのガス供給ルートが止まって、どうしようもないということでした。そこで私は、先ほどの経産省の役人との細いルートを頼って、「何とかならないか」と電話をしたんです。すると、その役人は、「わかりました。相馬ガスの社長と連絡を取らせてください」と言って、連絡を取ってくれました。

鎌田  で、何とかなりました?

髙橋  経産省でガスを買って、自衛隊が運んでくれました。それで相馬ガスの社長に感謝され、冗談ですが、「病院のクルマにガソリンを入れるときは、裏から入ってくれ。いつでも満タンにしますよ」と言われましたよ(爆笑)。あれは本当にありがたかった。人はこうして助けたり、助けられたりするんだなと思いました。

がんと診断されても全然驚かなかった

鎌田  先生は、先ほどの放射線量の問題が浮上する前から、1台5000万円もする、内部被曝検査のできるホールボディカウンターを、個人的に購入する意志を表明されていましたが、あれは本気でそう言われていたんですよね。

髙橋  もちろんです。

鎌田  私はその話を聞いたとき、この医師は普通の医師会の先生ではなく、鬼気迫るものがあるな、と思ったわけです。そこで話は冒頭のがんの話に戻るわけですが、それはご自身の病気と関係しているんですか。

髙橋  してます。いのちとの競争です。私はがんと診断されたとき、全然驚かなかったし、何にも感じませんでした。主治医とは、私のがんのことよりも、この福島県をどうするかということについて、論争ばかりしていました。それが1つの救いだったかもしれません。危機に立つ福島県を、そして南相馬市をいかに良くするかで頭がいっぱいで、そのために政府と闘い、厚労省と闘い、県と闘ってきました。

鎌田  こうしてお話をうかがってくると、亨平先生が福島に深い愛情を持っておられることを、ひしひしと感じます。

髙橋  やはり福島っ子だし、大学も福島だったし。秋の試験のころ、吾妻の山々に雪が積もり始めるんですよ。そして、春先になると、雪ウサギのような文様が現れて、菜の花が咲く。その繰り返しがいとおしい。

鎌田  そもそも大腸がんが見つかったのはいつですか。

髙橋  震災のとき、すでに痔有人になっていましたから、痔のついでにちょっと検査でもしてもらうか、という感じで検査を受けたわけです。実際、残便感もありましたし。5月に福島へ行って、後輩に診てもらったら、意外にも「自分には手に負えない」と言われ、大学病院を紹介されました。そこで大腸がんということになり、化学療法を受けています。

鎌田  効いてますか。

髙橋  効いてる。毎週データをチェックしていますが、マーカーの数値が下がってくるんだね。また、自分でがんが小さくなってきていることを感じますね。痛みも少なくなってきているし。

鎌田  どこかの時点で切除という考え方もありますね。

髙橋  あります。ありますが、自分は診療を続けないとダメだと感じています。主治医も、私に手術を勧めても、診療をやめないだろうと思って、様子見をしているようですね。とにかく、今は放射線との戦争状態で、これは自分がやらなければ誰もやってくれないから、その闘いに全力投球するつもりです。これからは、母乳や水、食べ物の検査もしたいと思っています。

鎌田  全国の乳児を持つお母さんが母乳の汚染を気にしていますよね。母乳はどの程度まで大丈夫ですか。

髙橋  50ベクレル以下だったら、絶対大丈夫です。

鎌田  暫定基準だと、200ベクレルですよね。やはり50ベクレル以下に抑えたい。また、妊婦さんの許容量は年間何ミリシーベルトぐらいですか。

髙橋  私は3.5ミリシーベルトにしました。というのは、日本の自然界が年間1.5ミリシーベルト程度ですから、その2倍ぐらいは大丈夫です。それに0.5プラスしたのは、セシウムは常に排出されているからです。

鎌田  そして先生は、その数値を超えた妊婦さんには、外部から放射線を運び込まないエアコンを、自費で買ってあげようとされている。

髙橋  2万5000円ぐらいだから、それはぜひやってあげたいと思います。

鎌田  だから「亨平ファン」が増えるわけだ。JCFの事務所を院内に貸していただいています。この部屋が実はそうです。JCFも何でも協力させていただきます。亮平先生を応援しているJCFを応援してください。

(構成/江口敏)

JCF(日本チェルノブイリ連帯基金)

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