鎌田實の「がんばらない&あきらめない」対談 (社)福島原発行動隊理事長・山田恭暉さん/理事・平井吉夫さん VS 「がんばらない」の医師 鎌田實

撮影:板橋雄一
発行:2011年8月
更新:2013年9月

3カ月先の仕事を止められやけ酒で重症急性膵炎に

鎌田  山田さんのがんは?

山田  悪性リンパ腫です。PTCL-NOS(末梢型T細胞リンパ腫-非特定)で、特効薬がありません。CHOP療法をやっても5年生存率が3割というのが定説のがんです。その抗がん剤をうつとき、担当医が「放っておくと5年生存率2割だが、抗がん剤をうてば3割になる」と言っていました。

鎌田  暗い説明ですね。

山田  暗いですけど、明解な説明でしたから、「そうか」と思いました。その後、東大医学部へ行って、「血液と腫瘍」という雑誌を読み、私と漢字が同じ長崎大学の山田恭暉先生にセカンドオピニオンを求めたら、まったく同じことを言われました。それでしようがないかと思いました。そして、やりかけの仕事を終わるまでは生き延びなくてはと思い、抗がん剤をやることにしました。それで一応収まりました。

鎌田  今は消えてるんですか。

山田  寛解状態です。今年で3年になります。ただ、収まってからがつらかったですね。「3カ月先のコミットメントをするな」と言われましたから。長期のプロジェクトは全部他の人に渡して、3カ月以内の短い仕事ばかりやりました。そうしたら、イライラしてどうしようもなくなり、やけ酒をくらって、重症急性膵炎になりました。

鎌田  そんなに飲んだの。

山田  飲みました。ダメなことは自分でもわかっているんですが、しらふでいるとつらいんです。止まらなかった。その悶々とした時間があって、やっと、がんで死ぬ覚悟ができました。悪性リンパ腫の患者会に出たことがありますが、元気で楽しくやればがんを克服できる、というような考え方にはついていけませんでした。死を受け入れた上で今を楽しく、という考え方でないとダメだと思います。死の覚悟ができないまま、死にたくないと思いつつ、がんに倒れていくのは、不幸ではないでしょうか。

平井  私は最近、死に対する恐怖が鈍っています。もともと人間が死を避けるのは本能ですが、それは種の保存の本能があるからです。しかし、私は子どもも残したし、死を恐れなくなっているように思います。

鎌田  死を受け入れるほうが強く生きていける。

山田  私は死を覚悟したときから、いろんなことが美しく見えるようになりました。コンサートで音楽を聴いて初めて涙し、自分が変わったことを実感しました。

鎌田  その後、悪性リンパ腫は再発しなかった。

山田  まだしていない���だけど、今でも3カ月ごとに検診ですよ。普通のがんの場合は、5年経てば生存率は上がりますが、PTCL-NOSの場合は下がり続けます。いつ発症してもおかしくない。

がん治療で学んだ生きていく意味

鎌田  そういう難しい病気だったから、原発の事故を知ったとき、何とかしなきゃと思ったんでしょうか。

山田  というよりも、自分が病気になったとき、死ぬまでの時間をどう生きるか、かなり真面目に考えさせられたことが大きいと思います。どう生きるかは考えても、死んでもいいやとは全然思っていない。

鎌田  なるほど。大きな病気をしたことが、生きる意味を考え直すきっかけになった。

山田  ものすごく大きなきっかけとなりました。

平井  私も大きな手術をしたあと、ようやく飯が食えるようになったとき、見舞いをいただいた大勢の人に礼状を書いたんです。その中に、「授かった余命だから、これからは役に立てるよう、大切に生きましょう」と書いたことを覚えています。おまけに授かったいのちですから、有意義に使わなくちゃと。

鎌田  山田さんから今回の連絡が入ったとき、世の中のお役に立とうという手術後の思いと重なるものがあった。

平井  あとから理屈をつければ、そういうことになると思いますが、とにかく私はこういうことが好きなんです(笑)。ただ、山田君から最初メールをもらったとき、真っ先に賛同したのは家内です。志願者トップは家内で、私は「婦唱夫随」ということで、2番に志願しました(笑)。

山田  いま事務所をサポートしてくれているのは、彼女なんです。事務局長ですね。

鎌田  話が戻りますが、60年安保闘争をやったことで、その後の人生は大変でしたか。

平井  東大と早稲田では違うと思います。東大では逮捕され有罪になっても、復学でき、教授にもなれましたが、早稲田ではそうはいかなかった。ただ、前科者になるということは厄介なことですが、そんなことは当然だと覚悟してやっていたわけですから。

山田  私は60年安保の翌年に学生運動をやめ、半年で卒論を書き、9月に就職の割り振りを学科の学生たちでやりました。当時は池田首相が高度経済成長を打ち出したころで、技術屋は引く手あまたでした。私の学科は20人の卒業生に90社から求人がきていて、志望先をじゃんけんで決めました(笑)。

鎌田  今の学生には夢のような話ですね。

山田  住友金属に面接に行きましたが、人事は変な学生を採るのはイヤだったのか、大学に一応照会したらしい。そうしたら、学科主任は「山田を採らなければ、来年から学生を送りません」と応じたようです。結局、高炉建設をめぐって通産省と喧嘩して「ケンカ方斎」と言われた、当時副社長だった日向方斎が、私を採ってくれた。平炉メーカーから高炉メーカーを目指した業界の異端児・住金には、やくざ者も必要だ、ということだったのでしょう。その後、日向方斎が目をかけてくれたお陰で、平井さんには申し訳ないけれど(笑)、転勤先を自分で決めるなど、好き勝手な技術屋生活を送らせてもらいました。

福島原発行動隊はひとまず原発の賛否は問わない

あくまでボランティアとして活動します

「社団法人として、原発事故を収束させる主体と契約し、あくまでボランティアとして活動します。お金儲けではありません」と話す山田さんと平井さん

鎌田  学生時代の反権力という気分は、大企業へ入っても消えないものなんですか。

山田  共産主義だ、社会主義だというのは、学生運動をやめたときに、もう終わっていました。そして会社に入ってからは、技術に対してどういう姿勢を取るかということに集中して、数10年やってきたような気がします。住金に28年勤めましたが、その間、仕事のグループのリーダーはやりましたが、組織の長になることは1度もありませんでした。生涯1技術屋で通すことが私の生き方です。利益のため、会社のために技術に対する評価を変えることはしない。その生き方は60年安保からつながったものだと思います。

鎌田  平井さんはそういうこだわりはありましたか。

平井  それはありますね。それを表に出すかどうかは別にして、奥底には常にありました。

鎌田  原発については、今回の事故が起きるまで、どう考えていましたか。

平井  原子力に対する嫌悪感は、昔からありました。私たちの学生運動は、安保闘争の前はもっぱら原水爆反対をやっていましたから、いかに平和利用と言われようが、原子力や核にアレルギーがありましたね。

山田  ただ、今回の福島原発行動隊の活動をするにあたっては、ひとまず原発賛成・反対は言わない、福島原発の事故収束にだけ集中する、ということにしています。

鎌田  それは大事なことだと思います。私は原発や放射能に納得できない気持ちを持ちながら、この20年間、チェルノブイリに関わってきましたが、今回の事故で感じるのは、エネルギー問題は民主主義が問われる、ということです。日本の原発の何がいけなかったかといえば、原発を推進してきたこと自体ではなく、原発推進派の学者だけが集まって議論してきたという、その民主主義がないスタイルがダメだった。たとえば原子力安全委員会に、原発に異論を唱える学者を1人でも入れておけば、もう少しまともな議論ができていたと思う。

山田  その弊害は原子力の世界だけではなく、住金のような企業の中にもあります。何か1つのプロジェクトをやる場合、賛成の人たちだけが集まって推進する。私は異端をやり続けたので大変でした(笑)。

鎌田  先日、許可をもらって、福島第1原発から20キロゾーンに初めて入ってきました。自衛隊、警察官、土木作業員の人たちが、ものすごく一生懸命、瓦礫の撤去作業をしながら、遺体捜索もしていました。私はどちらかといえば、やや左寄りの人間ですが、そういう人たちが被災地で大変な仕事をしているのに、左側の人たちは何をしているんだろうという思いを、前から持っていました。ですから、60年安保世代の山田さんたちが、原発の賛否はひとまずおいて、今そこにある危機の収束のために立ち上がってくれたことに、ものすごく共感を覚えたんです。

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