鎌田實の「がんばらない&あきらめない」対談 STAND UP!!代表/浜松医科大学医学部6年生・松井基浩さん STAND UP!!副代表/日本テレビ報道局社会部記者・鈴木美穂さん VS 「がんばらない」の医師 鎌田實

撮影:板橋雄一
発行:2010年9月
更新:2013年9月

主治医から見せられた子どもを抱く母の写真

写真:松井さん、鎌田さん、鈴木さん

「『STAND UP!!』の輪が拡がっていくことを大いに期待しています」(鎌田さん)

鎌田 突然の告知は、流れからいえば自然だったという感じもします。ただ、相手が24歳の独身女性ということを考えると、医療者側として、もうワンクッション置き、日を改めて告知すべきだった、という考え方もできます。

鈴木 1人で突然告知されたときは、一瞬、なんてひどいお医者さんだろうと思いました。しかし、告知を延ばされるということは、それだけ悶々として苦しむ時間が長引くということであり、覚悟もできないほど唐突に告知されたことは、かえって良かったのかなとも思いますね。ただ、医療関係を取材している先輩などから紹介していただいたりして、セカンドオピニオンならぬ、セブンスオピニオンを求めました(笑)。

鎌田 ちょっとやり過ぎ(笑)。

鈴木 告知を受けた病院では手術のあとに抗がん剤治療というスケジュールを提示されていました。それに対して、術前に抗がん剤治療を勧める意見もあったので、いろいろなオピニオンを聴いたわけです。

鎌田 なるほど。治療法に対するセカンドオピニオンを、いろんな先生に求めたわけだ。

鈴木 はい。結果的には、最初の病院で手術を受けたのですが、それまでいろんな意見を聴きました。いろんなデータを見せていただきましたが、正直なところ、生存率などのデータは見たくなかったです。

鎌田 若年性は厳しいからね。

鈴木 5年生存率何パーセントなどというデータは見たくないですよ。私の乳がんはステージ3で、リンパ節転移もあり、がんが2個あり、合わせて5センチほどでしたからね。先日、最初にセカンドオピニオンを求めた先生にお会いしたら、「2年後は厳しいと思ってた。自分の患者さんになったらどうしようと思ってたよ」と言われたくらいです(笑)。そんなに大変だったんだ、と改めて思いました。
でも、私の主治医の先生は、「僕は絶対治すつもりで治療する」と言ってくださいました。私が「あと何カ月、生きられるんですか」と訊いたとき、先生はパッと私の前にパネルを置かれました。そこには、赤ちゃんを抱いたお母さんの写真がたくさんレイアウトされていました。「この人たちは僕が診た若年性乳がんの患者さんたちで、治って子どもを生んだ人たちです。僕はここ���あなたの写真を絶対にもらうから」と言ってくださいました。

抗がん剤の副作用で認知症みたいになった

鎌田 いい話だねぇ!

鈴木 そのとき私は、「あっ、この先生だ!」と思ったんです。その先生から、パネルを見せていただきながら、「自分は絶対治す気で治療するから、その気で闘病しないとダメだよ」と言われたとき、はじめて号泣しました。

鎌田 どこかで1回、号泣するって、大事なことだよね。鈴木さんは、いいときに号泣したよね。24歳でしょう。赤ちゃんを抱いているお母さんの写真を見せられたら、絶対がんに負けまい、あきらめまいと思うもんね。

鈴木 赤ちゃんのことより、そもそも生きられるのかと思っているときに、「何にもあきらめることはないから」と言ってくれる先生がいたことは、私にとって幸せでした。

鎌田 本当にいい先生だねぇ。

鈴木 鎌田先生がすごく褒めていたと伝えると、先生、すごく喜ぶと思います(笑)。私がセカンドオピニオンを取った病院では、先に抗がん剤治療でがんを小さくしてから手術したらどうか、と言うところが多かったのです。そうすると、手術は何カ月も先になるわけです。若年性乳がんは進行が早いと言われており、抗がん剤治療を行っているうちに転移したらどうしようという不安もあり、早く手術してほしいと思って、最初の病院で手術しました。

鎌田 有名な大病院は非常に忙しいために、なかなか手術の順番が回ってこない、という面もありますからね。それで手術をしたあと、抗がん剤治療、放射線治療をやったわけですか。

鈴木 抗がん剤2種類と放射線治療、ホルモン療法を行いました。

鎌田 何がつらかった?

鈴木 抗がん剤ですね。つらくて、意識が朦朧とする時期が3カ月ほど続きました。毎日、泉を渡って天国のパーティ会場へ行く夢ばかり見ました。自分が天国にいるのか、現実世界にいるのか、わからない状態でした。他人が見たら、認知症みたいだったと思います。実家には犬がいたのですが、犬と一緒の生活はダメだと言われ、38度以上の熱が出ても致命的と言われたので、手術後、1人暮らしの部屋を借り、そこを無菌状態にして暮らしていました。自分では憶えていませんが、何度もその部屋から飛び降りようとしてたようです。そのくらい追い詰められていました。

1人のがん闘病生活はつらく苦しい思いをする

鎌田 放射線治療はどうでしたか?

鈴木 だるかったですね。それに25回、毎日通わなくてはならなかったですし……。意識ははっきりしていましたが、ずっとうつ状態でした。

鎌田 やっぱりうつ状態だったと思う?

鈴木 思います。

鎌田 そのときは、精神科の治療を必要としましたか。

鈴木 しました。精神科の治療には支えられました。精神安定剤を処方されました。その頃は眠れなかったのです。一旦眠ってしまったら、そのまま死んでしまうような気がしていましたから。目が覚めると、「ああ、まだ生きてた」という感じでした。

鎌田 日本人は精神安定剤とか、睡眠剤を、できれば飲みたくないと考えがちですが、自身の経験から、そういう薬は早くから飲んだほうがいいと思いますか。

鈴木 私の場合は、3日間ぐらい眠れない感じで、ベッドにいても倒れそうな感覚が抜けなくて、薬に頼らざるを得なかったのです。

鎌田 松井君は鈴木さんのようなつらい状態になりましたか。

松井 僕の場合は、がんセンターに入院しましたから、周りがみんな子どものがん患者さんで、一緒に闘っているという感じでした。抗がん剤治療をみんな当たり前のように受けていましたから、僕も当たり前のように受けました。治療がつらかったということはありません。1人でがんと闘っている人はつらく苦しい思いをするということは、後で知りました。僕は恵まれた環境だったと思います。

鎌田 抗がん剤を使ったときも、あまり苦しいことはなかった?

松井 そうですね。気持ちが悪くて、吐いたりしたことは何度もありましたが、周りの人たちも同じ状態を経験しているわけですし、僕が苦しんでいるときは周りの人たちから支えてもらいましたから、心にある程度余裕を持って治療を受けることができました。

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