鎌田實の「がんばらない&あきらめない」対談 北里大学麻酔科教授・外 須美夫 VS 「がんばらない」の医師 鎌田實
生きてあることに対する驚きと喜びに打たれる
鎌田 ご本の中には、「痛みはそれだけで終わるものではなく、実際には痛みによって世界が変わる」という表現もあって、僕自身はよくわかるなあと思ったんですが、そのへんについて少し説明していただけますか。
外 ありのままの自分があって、生活している。そこに痛みが襲ってくるその痛みにすべてが飲み込まれると、自分が自分でなくなってしまう。それは痛みの凄まじさだと思います。そういう状況は、麻酔医として絶対何とかしなければなりません。
その一方、痛みを味わった人の力というものもあると思うんです。痛みを味わうことは世界が変わることです。強い痛みをほうっておくことは許されませんが、それでも、病や痛みはただ負というものではないと思います。
鎌田 文学でいうと、だれがいちばんわかりやすいですか。
外 文学者ではありませんが、東京大学解剖学教授の細川宏先生の詩でしょうか。若くして教授になられたのですが、胃がんになり、そのあと、「ペイシェント」という長い詩を書いておられます。
鎌田 ペイシェントとは日本語で患者や病者という意味ですね。
外 ここでは「耐える人」という意味でも使われているようです。詩はたいへん長く、最初は痛みのつらさが延々と書かれています。けれども、そのあとに彼は「痛みを超えて見えてくるものがある」と書く。生きていることを実感させるものがある。そして、それを超えて現れる愛おしさのようなものがある。それはいったい何か。彼は、「そこに病み伏しつつも、おのれが生きてあることに対する名状しようもなく強い驚きであり、しみじみ深い喜びであり、命への限りない感嘆と畏敬である。病者はきらめくような至福の微光の中に、目くるめく思いに耐えつつ、しばしわが身を忘れ、病苦を忘れる」と書いているんです。
鎌田 「痛みによって世界が変わる」とおっしゃったのは、痛みによってつらい世界に行くこともあるし、新しい自分を発見したり、新しい光明を見つけることもある、という2つの意味ですね。
外 うーん。非常に強い痛みの最中に、何かを発見することは無理だろうと思います。その人がその人でない時間ですからね。その段階を過ぎてから、感じるものがある、ということだと思います。
人はだれでも最後にスピリチュアルに達する
鎌田 ところで、教科書的には「4つの痛みがある」といわれます。体の痛み、��神の痛み、社会的な痛み、そしてスピリチュアルな痛み。社会的痛みは少しわかりにくいですが、たとえば画家が作品の製作途中で病没するとか、一般の人が家族を残して死ななければならないような場合に感じる悲しみが、社会的痛みといわれます。日本人にはスピリチュアルな痛みもわかりにくいですね。
外 4つの痛みは、痛みを分類することで、たいへんわかりやすい側面があると思います。反面、分けることでかえって痛みがわかりにくくなる気がして、この本では少し異議を唱えました。実際には痛みを4つに分けることはできないと思います。痛みは身体から始まり、それが精神も社会も、さらにはスピリチュアルなところまで貫いていく。スピリチュアルとは霊的とか実存的とかといった意味で使われますが、私が緩和ケアの患者さんに接して思うのは、すべての人が最終的にスピリチュアルな領域まで達する、ということです。スピリチュアル・ペインとは、もしかしたら命の痛みではないかと思います。
鎌田 ああ、なるほどー。命の痛み。
外 そして、私がこのことにふれたのは、その力は痛みを跳ね返す、というように思ったからです。決してスピリチュアル・ペインでは終わらず、むしろペイン(痛み)に対する非常に大きな命の力として、人の中にあるのではないかと。
鎌田 なるほどねえ。ぼくは霊的な痛み、スピリチュアルな痛みというと日本人がわかりにくいから、この世からいなくなる不安というように考えていたのですが、今、「命の痛み」という訳し方をうかがって、「ほう、わかりやすい表現だなあ」と思いました。
外 命の対極にあるのが死であり、命を考えるときは死が常に影としてそこにある。ですから、それは死の痛みでもあったと思います。しかし、それがひるがえって力になるときは、生きていることに対する感謝とか、いとおしむ気持ちなどが力として出てくるのだと思います。ですから、身体的な痛みや精神的な痛みはあるけれども、そこで新しく発見する力も出る。それが命の力ではないかと思っているんです。
ただし、ぼくは本には痛みと書かず、健康と書きました。人間には身体的健康、精神的健康、社会的健康、そして、スピリチュアルな健康があると。
鎌田 WHO(世界保健機関)も健康には4つがあるとしています。それを引用されたのですね。
外 そうです。そして、痛みはその4つの健康にぐーっと侵入してくる。それに対して患者も医療者も必死に闘うわけですが、やはり医療には限界がある。しかし、その限界を超えたところには、「健康を害されてむなしい」という思いだけではなく、命の力というのがあって、その人を成長させたり、人生の意味を変容させたりする。苦しみやつらささえも、人生の業績に変容する。そういうことを可能にする力を、実はどの患者さんももっていると思うんです。
言葉は肯定。だから、痛む自分をも肯定する

鎌田 現実の問題についてもお聞きします。ぼくは、患者さんが苦しんでいることや痛みを医師は受け止め、同時に、ひとつの技術として軽減してあげるのが役目だと思うのですが、日本の医師はまだ患者さんの言葉を十分に受け止めていないと思うんです。
オピオイド系の医療麻薬の使用量だって、カナダやアメリカに比べて6分の1。痛くない、がまんがまんといってしまう医師がまだまだ多いため、患者さんは訴えを聞いてもらえないという不幸と、痛みを物理的にとってもらえない不幸という二重の苦しみの中にいるのではないでしょうか。
外 日本ではまだ、医療用麻薬の使い方が不十分な可能性はあると思います。ただ、最近は患者さんの側の情報量も多いので、やがて解決していくと思います。
ただ、オピオイドは痛みが消えるまで増やしていい、ということだけが広まって、少し危機感をもっています。実際には「患者さんごとにちゃんと配慮しなさい」という但し書きがあるんですね。そして、適量の見極めは、そう簡単ではありません。オピオイドは非常に強力な手段ですが、使い方が本当にこれでいいのか、検証し続けることは必要だと思います。と同時に、薬以外の力、その一つとして言葉の力を思わずにはいられないんです。
拙著に対して、俳人の正木ゆう子さんからお手紙をいただきましたが、正木さんは「言葉は肯定です」とおっしゃっています。
正木さんもがんで兄上を亡くされたそうですが、兄上は大腸がんが肝転移し、脊椎が圧迫されて仰臥位で寝ることができなかった。そこで椅子に座って寝ていたわけですが、その姿を見て主治医が「獅子寝という言葉があるよ。その格好は獅子寝だね」とおっしゃったそうです。
言葉は肯定。だから、詩や短歌や俳句は、言葉にすることで自分のつらさや苦しみや痛みを肯定する力をもつと。それが言葉だけでなく、痛みのどこかにも作用してくれるような気がするんですね、ぼくは。肯定することで、痛みの伝わりを抑制する力が出る。
とくに俳句は、非常に短いけれども、短いからこそ季語という自然を入れるのだと思います。それによって自然と交わり、宇宙と交わる。宇宙の中の自分を見つめる。すると、痛がっている自分にも宇宙の力や自然の力が降り注いでくる……ということではないかと思います。
鎌田 いいですねえ。読者の皆さんも、本の好きな方はぜひ読んでみてください。とても勇気づけられると思います。今日は本当にありがとうございました。
(構成/半沢裕子)
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