夢に向い、夢をかなえればがんを治す力が湧いてきます 「メッセンジャー」編集発行人・杉浦貴之/主婦・関水京子 × 鎌田 實

撮影●板橋雄一
構成●江口 敏
発行:2013年6月
更新:2018年8月

がんを克服した元ナースとの意外な出会い

鎌田 最初に摘出手術をしたんですね。

杉浦 左の腎臓を全部とりました。全摘手術をやらなかったら、現在の自分はありません。

鎌田 全摘手術のあと、抗がん薬ですか。

杉浦 2クールやりました。

鎌田 そのときに髪の毛が抜けたため、毛糸の帽子をかぶってヘルス(風俗店)へ行った(笑)。

杉浦 その店へ行くのがひとつの希望でした。退院を目指すモチベーションになっていました。実際は、入院中にフライイング気味に行っちゃったんですけど(笑)。

鎌田 友達と行ったんですよね。

杉浦 見舞いに来てくれた友達に、かっこつけたかったんですよ。自分はこんなに元気なんだと。みんなが心配し、同情の視線を送ってくるのがつらかったです。自分はまだ生きるんだということを、友達にも自分自身にも示したかったんです。

鎌田 一般的に、がん患者さんはそういうことを隠すんだけど、杉浦さんはさらけ出している。素直というか正直なんだね。

杉浦 私は煩悩多き人間なんです(笑)。

鎌田 でも私は、杉浦さんのように、がん治療に集中しながら、ヘルスへ行っちゃうとか、マクロビオテック(食事療法)に凝りながら、ステーキハウスや焼き肉屋に行っちゃうとか、そういう生き方のできる人が、がんを克服して生き残るような気がします。がんと闘いながらも、自分の好きなこと、夢中になれることを楽しむことができる人が生き残る。

杉浦 「がんばらない」が大事ですね(笑)。

鎌田 それが生きるエネルギーになっていくんです。そして、行ったヘルス店の女性が、がんを経験した元ナースだった。

杉浦 帽子をかぶったまま全裸になって、彼女の前にツクシンボウのように立ったんです。「なぜ帽子を取らないの」と聞かれたら、「ケガをしてるから」って答えようと思っていたんです。ところが、そこで「がんなんでしょ」と言われて、もう大泣きしました。そして、彼女が元看護師で、子宮がんの摘出手術をしていることを聞かされ、手術跡も見せられて、「私もこんなに元気になった。あなたも必ず元気になれるわよ」って励まされたんです。もう泣くしかなかったですね(笑)。

鎌田 いいなぁ。不思議な出会いだ���! 優しい女性に会ったんだ。

杉浦 こんなに煩悩にまみれているのに、神さまが出会わせてくれた。

雑誌「メッセンジャー」でサバイバーの背中を見せる

鎌田 「メッセンジャー」というがん患者さんの情報誌をつくろうと思ったのは?

杉浦 私は入院中に、がんを治した人の本をたくさん読みました。退院後、実際にその人たちに会いに行ったり、講演会に行ったりして、どのようにしてがんを乗り越えられたかというお話をうかがい、大きな勇気をいただきました。それで、自分もこの人たちの真似をしていこうと、心に決めたんです。

鎌田 サバイバーの背中を見て生きていく大切さを、そのときに実感したんですね。

杉浦 そして何年か経つうちに、私のあとにがんになる人が増えてきて、自分が背中を見られる存在にならなくてはと思うようになったんです。ただ、当時はまだ手術から6年後ぐらいで、自分はそれほど元気ではなかったんです。だったら誌面で、がんを克服し元気になった人を紹介して、がんと闘っている人とつないでいこうと思ったわけです。私は情報によって救われたので、希望のある情報をがん患者さんにお伝えしたいと思って、「メッセンジャー」を立ち上げました。

鎌田 創刊して8年ですね。私はこの「がんサポート」を創刊から10年、応援してきましたが、がん患者さんを対象にした雑誌は、なかなか読者層を広げるのが難しい。「メッセンジャー」はどうですか。

杉浦 ここ数年は4000部で増減なしです。ただ、私たちの活動には、がんでない人もたくさん参加してくれますし、がんでない読者も結構多いです。緩やかな絆で結ばれた仲間がいっぱいいて、雑誌やいろんなイベントで楽しく盛り上がっているという感じです。

子宮体がんの母親に寄り添ってくれた息子

「フルマラソンを走ったあとの達成感は格別です。ぜひ、皆さんにお勧めしたいと思います」と話す関水さん(左)

鎌田 関水さんは子宮体がんの手術をし、その後、6クールの抗がん薬治療をした3カ月後に、ホノルルマラソンを完走された。

関水 ほとんど歩くような状態でしたが、完走しました(笑)。

鎌田 2010年3月に貧血がひどい状態で、子宮体がんが発見され、ステージⅣの進行がんと診断された。

関水 自覚症状はありました。お腹が腫れてきて、水のようなおりものがありました。自分でがんだと思いました。

鎌田 手術が予定時間よりかなり早く終わってショックだったそうですね。

関水 手術に臨むとき、痛みがあったんです。この痛みさえ取れればと思って手術台に上がったのですが、手術が終わっても、痛みが残っていたので、とてもショックでした。

鎌田 手術で取りきれなかったということですか。

関水 いえ、頭が痛みを覚えていたのです。ドクターが来られて、「そこにはもう何にもないから、大丈夫だよ」と言われ、そう思うようにしたら、痛みが消えました。それが唯一の救いでした。リンパ節のほうも取る予定でしたが、輸血との関係でこれ以上は無理だと、ドクターがストップされたようです。

鎌田 リンパ節転移が取り切れていない可能性があるということを自覚され、どうしようと思ったのですか。

関水 家族にすごく心配をかけているし、自分でどうにかしなくてはと思いました。そのときは6クールの抗がん薬治療を行うことが決まっていましたから、それに向かって体調を万全に整えることだけに専念しました。

鎌田 息子さんが寄り添ってくれたんですよね。お母さんががんの告知をされオロオロしているときに、「俺が絶対に守るから、母さんは元気になれよ」って言った。そして、先生から抗がん薬治療を言われたときも、息子さんが「先生ならこの抗がん薬治療を受けますか」と訊き、「一応受けてみます。結果が出ないときは止めます」という言葉を引き出し、納得したんですね。頼りになる息子さんだ。

関水 息子がそこまでやってくれるのに対して、母としてどういう対応を取るべきか、しっかり考えました。

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