「がんばらない」の医師 鎌田實とがん患者の心の往復書簡 松村尚美さん編 第5回
この往復書簡が人生を見直す契機になりました

かまた みのる
東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、管理者に。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(ともに集英社刊)がベストセラー。最近発売された『病院なんか嫌いだー良医にめぐりあうための10箇条』(集英社新書)『生き方のコツ 死に方の選択』(集英社文庫)も話題に。
医療者・鎌田實さんから がん患者・松村尚美さんへの書簡
お手紙ありがとうございます。前回のお手紙よりは、少し元気になられたかなあと、勝手に想像しました。うれしいです。もしかして、間違っているとしたら、ごめんなさい。そう思いたいのかもしれません。上手な聞き役にもなれない往復書簡の相手に心づかいをして、元気を演じてくれているかもしれませんね。申しわけないと思います。
「一人称の死は堪えられても二人称の死は堪えられないという言葉を重く受け止めています」という1行に、ぼくの心はクギづけとなりました。
実は、昨日学会で柳田邦男さんを記念講演にお招きしました。昨年、NHKラジオの「鎌田實の命の対話」でゲスト出演をしていただきました。そのときは「子どもに命を伝える」をテーマに絵本のお話が主でした。半年ぶりにお会いした今回は「専門化社会と二.五人称の視点」というテーマでお話をうかがいました。
患者さんを単なる三人称で見ないで、自分だったらどうして欲しいか、自分の家族だったらどうしてあげたいかと、視点を変えてみる大切さを語っていただきました。三人称を一人称や二人称に近づけてみることを「二.五人称」という柳田さんのユニークな表現に感心しました。医師や看護師へ向けての警鐘でした。
必要なのは他者の言葉を受け止める力
ぼくの部屋に、けっして美しいとはいえない小さな白黒のへんてこなポスターが張られています。この部屋の主人がどんな顛末でこのポスターを手に入れ張ったのかはわかりません。このごろ、ぼくは物忘れがひどく、アルツハイマー病の始まりかもしれないと、ふと考えることがあります。佐喜真美術館と書いてあるが、どこの県にあるのかわからない。2000年に行われた展覧会のポスターらしい。不気味な絵なのに、ひきつけられるのです。書斎には似つかわしくない絵です。
ケーテ・コルヴィッツ(1867年~1945年)というドイツ人の画家の作品です。夫は貧民街の診療所の医師でした。彼女は虐げられた人々のなかに人間の美しさを見い出そうとしました。「母たち・戦争」と題した不気味な絵です。眼を見開いた母親たちが輪になってスクラムを組んで、子どもの命を守ろうとし���います。母親の顔はムンクの叫びのような絶望的な哀しみの表情を秘めながら、巨大な力にも堪えようとする力強さを感じさせます。二人称の命を守ろうとしている母の姿がありました。
つい最近、この小さな美術館に「原爆の図」を描いた丸木位里さんと俊さんの「沖縄戦の図」が常設展示されていることを知りました。場所は沖縄県だったのです。まるでぼくに、おいでおいでをしているようでした。
一人称の死は辛くて悲しいです。しかし、尚美さんが言う通り、一人称の死は、もしかしたら堪えられても、二人称の死はもっと辛く耐え難いかもしれません。

ぼくは毎年高校生たちに、教科書には載っていない「一度だけの命の授業」をしています。この国は今、おかしい方向に進んでいるのではないかと、勝手に心配しています。数日前、長崎の小学生の女の子がカッターナイフで同級生の命を断つという痛ましい事件が起きました。次々におかしいことが起きます。焦っています。なんとかしたい。日本はもっといい国のはずなのに。命の大切さを子どもたちにつたえることを、自分のライフワークにしようと、今思っています。
ケーテ・コルヴィッツに会いたくて、今年は石垣島と宮古島の高校生に話しに行きました。
この美術館は知花昌一さんという知人が住んでいる読谷村に近いことを知って、島での講義のあと、彼に美術館を案内してもらいました。島にあるチビチリガマという洞窟で、米軍が上陸したとき、集団自決がおこなわれました。知花さんは親が自分の子を殺すという悲劇を忘れないように、ガマを守っているのです。ガマも案内してもらいました。
二人称に向きあう命が美術館にあふれていました。丸木夫妻の絵も極限におかれた人間の二人称の死がいくつも描かれていることを知りました。尚美さんが言われる通り、二人称の命の死がせつないのです。ブッシュさんも、長崎の11才の女の子も、三人称の命を二.五人称の視点でイマジネーションを働かすことができれば、ギリギリの所で悲劇をくい止められたかもしれません。残念です。必要なのは、他者の言葉を受けとめる力。最近、現代人は人の話に耳を傾けることに不器用になっているように思うのです。人の話を通して、他者への想像力を働かせられるかどうかが問われています。
二.五人称の視点を持っていた看護師さん
青春時代、ドストエフスキーに憧れていました。『白痴』『罪と罰』『悪霊』、どれもすごいが、何と言っても『カラマーゾフの兄弟』。くり返し読みました。
俗物の父と、その血を引く3兄弟。父の謎の死。意外な展開。「どんな人間の中にも、けだものがひそんでいる」。ドキッとする言葉がちりばめられていました。重く、厚く、深い大作。読み切ったときの満足感が忘れられません。

ドストエフスキーの実筆の書類の前で
数年前、サンクトペテルブルグのダウンタウンにあるドストエフスキーの家を訪ねてきました。いつかもう一度、世界文学屈指の未完の名作『カラマーゾフの兄弟』を読み直したいと夢見ていました。
重苦しい大作を読みきる体力があり、時間の余裕があり、読むことによって何かが変わる、そんなときが人生の中には何回かあるように思うのです。
この物語は、生きることの意味や家族の絆について、考えるきっかけになりました。ずっと二人称のことが気になっていました。きれいごとに流されず、人間の醜さがこれでもかと書かれていました。二人称への虐待が書かれています。ストレス社会の現代に始まったのではなさそうです。愛憎というのは一筋縄ではいかないのですね。二人称の憎しみというのに戸惑いながら、これも人間の姿だと知りました。しかし、醜さの向こう側のすごさみたいなものを感じました。
13年前、チェルノブイリ原子力発電所の事故による放射能汚染地帯に行ったとき、不思議な言葉を聴きました。モスクワにある科学アカデミーでした。ヒトロフ教授は放射能汚染のひどさを丁寧に説明してくれました。別れのとき、ぼくの手を握りながら「ダスビダーニャ、さようなら」とあいさつに続いて話はじめました。「一人の子供の涙は人類すべての悲しみより重い。チェルノブイリの子供は泣いています。助けてください」
出だしのフレーズはカラマーゾフの兄弟に出てくる言葉だと思いました。その後、子供を守るために、73回の医師団を派遣し、救援活動をおこなってきました。難治性の白血病の子供を救うために骨髄移植をベラルーシ共和国のお医者さんに指導しました。全力で治療をしたが、難治性の白血病の少年を助けられませんでした。ぼくはお悔やみを言ってあげたい、グチを聞いてあげたいと思って、ベラルーシの田舎の小さな村を訪ねる旅をしました。母親の言葉が忘れられません。二人称へのせつない思いでした。
「うちの子が、骨髄移植後、敗血症になりました。日本から来た看護師さんが何度もうちの息子に何が食べたいかと聞いてくれました。息子が熱にうなされながらパイナップルが食べたいといいました。貧しくて、パイナップルなんて手にはいらないのです。日本の若い看護師さんが、息子のために、2月の雪の中をパイナップルを探し歩いてくれました。嬉しかった。街中の噂になりました。数日後、パイナップルが病院に届きました。うちの子は助からなかったけど、私達家族は、息子のためにパイナップルを探してくれた日本の看護師さんのことを絶対に忘れません。感謝しています」
民族が違っても、言葉が違っても、宗教がちがっても人間は理解しあえると、このとき思いました。この看護師さんは、二.五人称の視点をもっていたと思います。『雪とパイナップル』(集英社)という絵本がやっとできあがりました。
まず大人に読んでもらいたい。いいと思ったら若い人や、子どもたちに手渡してもらいたいと思って作りました。近々、お送りしますので読んでください。
ちょっと前に出版した『生き方のコツ・死に方の選択』(集英社文庫)と6月に放送されたNHK教育テレビ「人間講座」のテキストをお送りします。7月19日(午前9時~12時)NHKラジオ「鎌田實・命の対話」 国境を越える命をテーマに大石芳野さんとアグネス・チャンさんとジョン・チャヌさんをゲストにお招きします。ジョン・チャヌのバイオリンがすごいのです。聞いてください。
苦難の中にいる人や子どもたちのために
ぐだぐだと自分の思いを書いてしまいました。ごめんなさい。1週間前に退職願を出しました。1医師として、外来も往診も、老人保健施設のお年寄りの診察も、看護学校長も同じように続けるのですが、病院の最高責任者の職を辞して、嘱託で務めようと思っています。30年間病院づくりのために走り続けてきました。この国の冷たい医療の仕組みの中で、病院経営を続けることに疲れたのかもしれません。立ち止まって、ゆっくり風景を見たい衝動にかられました。
尚美さんの娘さんがぼくの言葉を使って「がんばらないで」とあなたに声をかけるそうですね。実は、ぼくは「がんばらない」と言いながら、がんばってきました。尚美さんもぼくもがんばる人なのかもしれません。
新院長を置いて3年たちました。彼も慣れてきました。いい時期がきました。石垣島へ立つ日に市長に辞表を出しました。「完治できなくとも精一杯生きていきましょう」という尚美さんの言葉に背中を押されました。
病院経営に使っていた時間を患者さんや、苦難の中にいる人や、子どもたちや、そして自分のために、使おうと決めました。イラクでは、白血病の子どもたちの治療ができなくなっているようです。助けて欲しいと声がかかっています。ヨルダンのアンマンで、イラクのお医者さんたちとイラクの子どもたちの命を守るための話し合いに来て欲しいといわれ、迷っていましたが、何か、ふっきることができました。ハードルは高くても、できるだけのことをやってみようかと思っています。
病院に迷惑をかけてはいけないと思いました。この国は冷たい国で、人のために働いても、事故があると「自己責任」と言われます。病院に迷惑が及ばないようにしておきたかったのです。
イラクの白血病の子どもたちに会いに行ってきます。
乳がんは不思議な病気ゆっくり行きましょう
尚美さんを支えたいと思いながら始めた往復書簡は結局、自分の人生を見直す契機になりました。「がんばらない」けど「あきらめない」で、方向は違ってもボチボチ行きましょう。
先週末40代の乳がんの患者さんが退院しました。1年10カ月前、腫瘍部分が自壊して浸出液の量も多かった。リンパ節転移のため、頸部浮腫がおきて、息も十分にできないような状態で、群馬からSOSが入りました。
彼女は命のことはすでにあきらめていました。乳房部分からの浸出液が多く、自己流にしていた処置が、どうにもならなくなっていました。「あきらめないで、根本の治療をしましょう」とお話しました。抗がん剤による治療で、頸部のリンパ腺転移も小さくなり、浸出液も減りました。まだわずかに浸出液があるためガーゼを当てています。ニコニコしてあいさつに来ました。
「1年10カ月前は生きられないと思っていたのに、こんなに元気になりました。出たり入ったり、この病院が気に入って、どちらかというと病院中心の生活でした。病気は治ったわけではないのですが、自信がわいてきたので、これからは群馬の家を中心にして生きていきます。でも、この病院に化学療法には通います」
1年10カ月前の涙はなかった。乳がんは不思議な病気、けっこうなんとかなることが多いのです。まだまだこれからです。
一人称の命も、二人称の命も、お互いに大切にしたいですね。がんばらないで、あきらめないで、ゆっくりいきましょう。
今日も1日美しい日でした。今日は、ぼくも、尚美さんと同じ言葉が言えそうです。
ありがとう、さようなら、ではまた。
鎌田實
松村尚美さま
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