「がんばらない」の医師 鎌田實とがん患者の心の往復書簡 松村尚美さん編 第9回
あなたの生きようとする細胞に何か声をかけられないかと思っています

かまた みのる
東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、管理者に。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(ともに集英社刊)がベストセラー。最近発売された『病院なんか嫌いだー良医にめぐりあうための10箇条』(集英社新書)『生き方のコツ 死に方の選択』(集英社文庫)『雪とパイナップル』(集英社)も話題に
医療者・鎌田實さんから がん患者・松村尚美さんへの書簡
お手紙ありがとうございます。厳しい状況が続いているはずなのに、お手紙のトーンが少し変わったように感じられます。表面だけかもしれませんが、表面だけでもいいのです。手紙を読んでうれしかったです。尚美さんの免疫機能をなんとか高めたいと思っていたので、ほっとしました。しめしめと思いました。ぼくは尚美さんの乳がんの進行をとめられないだろうか、あるいは自然退縮ができないだろうかと頭を悩ませています。それがぼくの役目だと思っているからです。遠く離れたところで、主治医でもない自分に何ができるかわかりません。でも尚美さんの中にある、あなた自身も気がついていない「治ろうとする細胞」「生きようとする細胞」に何か声をかけられないかと考えています。
自然退縮のキーワードは『実存的転換』
がん細胞はただ増殖するだけではなく、ときにはがんの進行が停滞したり、再発がんや進行がんでも自然退縮をするときがあると言われています。本来消えるはずがないのに、わずかですが、がんが自然に消えた例があるのです。
がんの自然退縮について詳しく知りたいと思い、69例のがんの自然退縮の症例を集めて研究した中川俊二先生の論文が手に入らないか探しました。中川先生はがんの自然退縮の先駆者といわれている、九州大学医学部心療内科教授の故池見酉次郎先生の弟子で、『がんになりやすい性格――奇跡的にがんを自然退縮させた実例集』という本を書いています。しかし、すでに絶版になっていたので、なかなか見つけられませんでした。図書館を探し、ようやく見つけ、全文コピーをさせてもらいました。がんが消えた69例の中には乳がんも4例入っていました。がんが自然退縮するときに免疫力が高いことは、1つの決め手になっているようでした。また、アレルギー反応とか、あるいはがんの周りで炎症が起きているときに、自然退縮が始まっていました。
今尚美さんの乳がんは、皮膚へ転移して、皮膚から滲出液が出て、その処置もとても厳しい状況だと聞いています。でも考えようによっては、皮膚に炎症が起きているともいえるわけです。がんの周りで起きている炎症に引きずられてリンパ球が集まり、そこで炎症を抑えようとする働きも当然尚美さんの体の中で起きているはずです。ぼ��は、その炎症を防ごうとしている防御システムが、うまくがん細胞に対しても免疫反応を示してくれないか、そんな期待を抱いています。
中川先生が発表した69例をつぶさに検討していくと、がんが自然退縮していく過程で、ほとんどの人たちが実存的転換をしているんです。この実存的転換という聞きなれない言葉が、中川論文の中に何回も出てきています。前回(がんサポート3月号)の永田勝太郎先生との対談の中でも、永田先生が実存的転換という言葉を何度も使われていました。大切なキーワードという気がします。
中川先生は、絶望や落胆や悲しみや生きがいの消失などの中にいるとき、病状はさらに悪化すると書いています。実存的転換とはこれらの状況を克服して心機一転し、新しい希望や生きがいを見つけ、ささやかなことに満足感を見出し、1日1日を前向きに行動しようとすること。すなわち「生きる意味」を見つけ出す心構えの転換、とぼくは解釈しました。重い病気を持った者が自分の命の危機を知ったとき、人生に新たな希望を見出すことができるかどうかが、その後のがんの進展や退縮に関係があるのではないかと思っています。
「生きる意味」を見つけるきっかけに
柳田邦男先生と昨年対談をし、『鎌田實いのちの対話』(集英社刊)という本を出しました。その中でも触れているのですが、ぼくは柳田先生から大切なことを教わりました。それは、絵本は3度読むチャンスがある。子どものとき、子どもを育てるとき、そして3番目はいのちを見つめる人生の大切なときだと。そこでぼくは、いのちの大切なときを生きている尚美さんが、しかもこのところ頻脈発作や不安定感など、今までなかった症状も加わってきている状況をどう乗り越えられるか考えてみました。
実はここに、尚美さんへのクリスマスプレゼントの秘密が隠されているのです。なんとか実存的転換のきっかけをつくれないだろうか、そう考えました。「生きる意味」を見つけることはとても難しいことです。ましてや重い病気になりながら生きる意味を見つけるということはとても大変なことだと思います。そこで絵本の中から何か大切なきっかけを見つけられないかと勝手な想像を働かせ、尚美さんのクリスマスプレゼントに絵本を贈りました。
お手紙に書かれていた2人のお子さんが小さいときに読んだ『おふろだいすき』や『ねずみくんのチョッキ』の話は、ほのぼのとして、とてもいい話だと思いました。ぼくは子どもが小さいころ仕事に夢中で、子どもに接する時間がなく、絵本を読んであげたような思い出はありません。後悔しています。ぼくにも2人の子どもがいて、上の男の子は30歳、下の女の子が近々26回目の誕生日を迎えます。去年は娘に2冊の絵本を贈りました。今年も葉祥明さんの本を1冊、娘の誕生日プレゼントに贈るつもりです。子どものころ、絵本を読んであげなかったことの、とり返しはつかないのですが、なんとかぼくと娘との関係の、帳尻をつけたいともがいています。

100万回生きたねこ
(佐野洋子著 講談社刊)
『100万回生きたねこ』は絵が素敵で、読む側が勝手に、自分流に読める、おもしろい絵本です。ぼくは2カ所、とくに好きなところがあります。「あるとき、ねこはだれのねこでもありませんでした。のらねこだったのです。ねこははじめて自分のねこになりました。ねこは自分が大好きでした」。今まで人間の飼いねこであったねこが、のらねこになって、初めて自分のねこになったというところです。自分が人のねこではなく、自分のねこになったときにねこは自分が好きになった。王様のねこだったときのほうが豊かな生活ができたのに、そのときのねこは自分が嫌いだったと書かれています。

もう1カ所は、尚美さんと同じです。ねこは白いねこを愛し、白いねこは子ねこをたくさん産み、そして、その愛している白いねこを失ったとき、「ねこは、初めて泣きました。夜になって、朝になって、また夜になって、朝になって、ねこは100万回も泣きました」。100万回も泣けるほどの大切なものを持ちたいと思います。
悲しいときは100万回も泣きたい
中川先生の本の中には、がんに負けないためにどうしたらいいか、具体的なノウハウも語られています。金やモノに捉われず、たんたんとした生活をし、最期まで生きる希望を持ち続けることが大切と書いています。
また、ストレスや内向きの心の状態ががんと関係していると語っています。「ここで怒ったらみんなの迷惑になるのではないか。怒り、不安などを表に出せば、相手を敵にし、摩擦が起き、周囲の迷惑になることを先に考えて、無理にこらえて耐え、辛抱してしまうのである。このことは一見感じのよい物静かな態度とみられ、社会的規範を忠実に守る姿勢とみられるが、実はその奥深くに、自分の感情が押さえ込まれていることが多いのである。そして実はこのことを本人は無意識のうちに行っている」。
『100万回生きたねこ』のように、だからこそ悲しいときには100万回も泣きたいと思いました。感情を素直に表に出すことは、日本人は苦手です。でも感情を押さえ込まないことが大切だと思いました。悲しいときには悲しい、うれしいときにはうれしい、あるがままに……。うーん。言うのは簡単ですけれど、難しいですね。我慢はしないこと。がんばらないこと。がんばらないけれど、あきらめない。それでも、やっぱり、がんばらない。すみません。ぼくはとことん、がんばらないが好きな人間で、いつでも大丈夫、なんとかなるさって思って生きてきました。
尚美さんに贈ったもう1冊の絵本、『だいじょうぶ だいじょうぶ』は、登場するおじいちゃんが、いい味を出しています。何だかスカートをはいているように見えるときもあります。繰り返し見ていると、おじいちゃんの顔を見ているだけで何か楽しくなってしまうのです。
子どものころ、転んで足を擦りむくと、母が「だいじょうぶ、だいじょうぶ、痛くない、痛くない。ちちんぷいぷい。痛いの痛いの飛んでいけ」と足につばをつけてくれたのを覚えています。チェルノブイリの放射能の汚染地帯の白血病の子どもの命を支えている、ぼくと同じ年のタチアナ先生という女医さんは、抗がん剤が苦しくて泣いている子を抱きしめて、「だいじょうぶ、だいじょうぶ。私がついている」と言うのが口ぐせでした。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」という言葉は、不安な思いを丸ごと引き受けてくれる感じがして、とても心強い言葉です。
またこの絵本は、文章がゆっくり流れて美しいのです。やがて男の子が大きくなり、男の子はおじいちゃんの手を握り、何度でも、繰り返します。「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。おじいちゃん」。何度読んでも美しい言葉です。支えたり、支えられたり、こうやって命のバトンタッチをしていくのでしょう。
生きようとする細胞に手紙を書きます
尚美さんの書かれている2つの文に目がとまりました。
「希望とは何だと思われますか。私は自分の病状や現在を知ることだと思っています」。そして、「私はおろおろする自分をそのままに書きつらねています」。
尚美さんは厳しい現在を直視しながら、戸惑い、悩む姿をさらけだしながら、なお、そこに、希望を見出そうとしているように見えます。すごいと思います。現実から逃げずに、自分に与えられた命に丁寧に向き合おうとしている尚美さんに頭が下がります。

ぼくが疲れたとき、生きる力をぼくに与えてくれている絵本があります。『パシュラル先生からの手紙』(はらだたけひで著 朝日新聞社刊)。絵を見ているだけで心が安らかになります。「あたらしい雨ぐつ 雨のおと 雨のにおい」この2ページの絵と文が大好きです。嫌なことがあった日、眠りにつく前によく見るのは最後のページの「わたしはいっぽんの木になりたい」。パシュラル先生のなんともとぼけた顔が好きです。心が落ち着いてきます。
この本の書き出しはこんな文です。「パシュラル先生は日曜日に手紙を書きます。うれしいこと、美しいことをたくさん」。ぼくも尚美さんに手紙を書きます。うれしいこと、美しいことをたくさん。あなたの生きようとする細胞に手紙を書いています。モールス信号のようにトントン、ツー、トーン、トントンと、その細胞に合図を送りたいと思っています。あるいは糸電話のように、わずかな振動があなたの細胞に、伝わっているといいな、と思っています。

あなたの手紙の最後に「大きな自然の中で生まれ死んでいく」と、書かれていました。クレア・A・ニヴォラ作『あの森へ』という絵本を尚美さんにプレゼントします。ぼくが尊敬している柳田邦男さんの訳で、柳田さんから、ぼくもプレゼントしてもらいました。小さなねずみが怖がっていた森へ勇気を出して入り、森でゆっくり休んで帰ってくるだけの話なのですが、なんとも温かみのある美しい絵が広がって、はっとします。あなたの生きようとしている細胞へ、ぼくからの心からのプレゼントです。
以前のお手紙で、日本の医療は人と人、人と自然、体と心の3つのつながりを大切にする「つながる医療」を置き去りにしてきたと書きました。ぼくは中川先生のがんの自然退縮した69例を見て、体と心のつながりがとても大きいように感じました。そして、「大丈夫、大丈夫」という、すべてを包み込んだり、受け入れたりしてくれる言葉の向こう側に、人と人とのつながりがあるように感じました。命はやっぱり、人と自然、体と心、人と人のつながりの中で、守られていくものだと思います。
本当に厳しい冬がやってきています。家の周りもすべて雪で覆われました。明け方3時に起きて、この手紙を書いています。昨日の朝7時に病院へ出ていくとき、外の気温はマイナス12度でした。きれるような寒さです。遠く離れた信州の寒い夜明けの中で、尚美さんに何か力を与えられないかと思いながら、自分の力のなさに地団太を踏んでいます。
昨日の夕方、うれしい電話が入りました。絶品になっている『癌が消えた 驚くべき自己治癒力』(キャロル・ハーシュバグ、マーク・イーアンバリシュ共著)という本が古本屋で見つかったとの連絡で、読みたかった本がようやく手に入ります。次回は、もう少し頭の中を整理しながら、新しい視点で手紙が書けたらいいなと、淡い希望を持っております。
厳しい冬真っ盛りです。どうぞご自愛ください。
鎌田實
松村尚美さま
松村尚美さんへのお別れの言葉
2005年2月13日、松村尚美さんが旅立たれました。2月15日に開かれたお別れ会で、鎌田さんはヨルダンの難民キャンプから、追悼メッセージを寄せられました。
あなたの突然の訃報を聞き、驚いています。『がんサポート』の往復書簡で初めてあなたの文章を読んだとき、すばらしい文体、リズム、感性の鋭さに圧倒されました。病が進んでからは、私はだれも支えることができないと悩まれていましたが、あなたの書かれた文は、どれほど多くのがん患者を励ましたことでしょう。今、僕はイラクとヨルダンの間の難民キャンプにいます。遠く離れたところから、あなたのご冥福を祈っています。
ヨルダンにて 鎌田實
松村尚美様
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