「がんばらない」の医師 鎌田實とがん患者のこころの往復書簡 金子淑江さん編 第3回
今日まで、逃げずによく闘ってきました。自分自身にご褒美をあげて一休みしましょう。

かまた みのる
東京医科歯科大学医学部卒業。長野県茅野市の諏訪中央病院院長を経て、管理者に。がん末期患者、お年寄りへの24時間体制の訪問看護など、地域に密着した医療に取り組んできた。著書『がんばらない』『あきらめない』(ともに集英社刊)がベストセラー。他に『病院なんか嫌いだー良医にめぐりあうための10箇条』(集英社新書)『生き方のコツ 死に方の選択』(集英社文庫)など。最新作は『それでも やっぱり がんばらない』(集英社)
医療者・鎌田實さんから がん患者・金子淑江さんへの書簡
なんて素敵な人なんだと感心しています。見事なギア・チェンジだと思います。
卵巣がんが再発し、次々に腫瘍が浸潤していく中、あなたはへこたれず、わずかな可能性を信じて攻撃的な治療を選択しました。どんな状況に追い込まれてもあきらめない淑江さんの生き方を尊敬して見てきました。きっと心の中では何度もくじけそうになったはずです。何度も何度もあなたは、くじけそうになる心を立て直して闘いました。よく頑張りましたね。
腫瘍が大きくなって尿管を圧迫し、2次的な腎不全が起きて尿が全くでなくなり、カリウムが10を超したと聞いて驚いています。カリウムが高くなると不整脈が出やすくなり、突然死もあり得る状況だったと思います。もともと腎臓が悪かったわけではないので、腎ろうが造られて尿の流れができれば、腎不全の心配はなくなると思います。淑江さんの命の底力に感心します。本当にすごいと思います。
土俵際の徳俵にかかった中で、あなたは見事な選択をしました。なかなかできないことなのです。
徹底した治療をするのは、治りたいからでもなく、延命したいからでもなく、目の前の不安から逃れたいためだったという、あなたの正直な気持ちが伝わってきます。ときにはがんばり続けることのほうががんばらないことよりも楽なことがあるのです。あなたの気持ちはよくわかります。本当に正直な人ですね。あなたの選んできたいままでの道に、間違いはありませんでした。全ての可能性を信じて、あきらめないであなたはよく闘いました。
でも、がんばりすぎなくてもいいのです。がんばり続けなくてもいいのです。がんばってがんばって生きてきた人生の中で、がんばらない勇気を持つことはとても難しいことです。しかし、人生の中でときにがんばらない勇気を持つことはとても大切なことなのです。
元ご主人が思いを横に置いて支えるすばらしさ
今だって、あなたの生命の火は赤々と燃えています。僕には見えます。これから緩和ケア病棟に移って夏休みを子供たちと過ごすとのこと、すごいですねぇ。看護学校に通う看護���の卵である長女にとって、淑江さんが淑江さんらしく生きる姿を見ることは、彼女のこれからにとって、とても大切なことのように思います。いいお母さんですね。あなたが吐いているとき、末の娘さんが背中をなでてくれる。目に見えるようです。淑江さんの心が透けて見えてくるようです。きっと、娘さんの手のひらには、淑江さんの背中のぬくもりが刻印されていると思います。彼女は一生、母の背中のぬくもりを忘れないでしょう。
それに、いい病院ですねぇ。すばらしい主治医がいて、それぞれ特徴のある看護師さんがいて、良いケアが行われています。すばらしい2人の娘さんがいて、あなたのことを親身に思ってくれる何人もの友人がいる。そして何よりもすばらしい人がいます。いろいろなことがあって別れた元のご主人が、いろいろな思いを横に置いてあなたを支えにきてくれる。すごいことだと思います。
不器用でも一生懸命に生きているあなたの生きる姿が、みんなにとっていとおしく思えるのだと思います。みんなにとってあなたは大切な人なのですね。
現代ホスピスはイギリスが発祥の地
〈当日はとても暑い日で、電車道のデコボコがお腹には少しこたえたかもしれません。さあ、新しい病院で新しい環境で、私の次のプロセスが始まります〉
さわやかな潔さが感じられます。いつも前向きで、あなたが移ろうとしているホスピス・緩和ケア病棟とはどんなところなのか、この往復書簡を読んでいる読者にはなんとなくしか、わかっておられない方も多いと思いますので、緩和ケアとは何かを説明をしたいと思います。
「緩和ケアの目的は、患者さんと家族の可能な限りの最良のQOLの達成である」とWHO(世界保健機構)は言っています。
緩和ケアは生命を肯定します。死を早めることも引き延ばすこともしません。生も死も自然の過程ととらえます。疼痛やその他の不快な症状を緩和し、精神的ケアやスピリチュアルなケアを施します。可能な限り積極的に生きられるようにサポートを提供してくれます。生きる場なのです。家族に対しても精神的なサポートをしてくれ、悲嘆を支えてくれます。病気によるありとあらゆる苦痛を和らげ、その人がその人らしく生きることを支援しようとしてくれるところです。
その起源は4世紀頃、巡礼者のための憩いの家として造られたと言われています。現代ホスピスはイギリスで1967年にシシリー・ソンダース博士がロンドン郊外にセント・クリストファー・ホスピスを建てたことで始まりました。
ホスピスという言葉はホスペスというラテン語から始まっています。主人と客が対等な関係であることを意味していると言われています。この言葉から、ホストやホステス、ホテルが生まれてきました。ホスピタリティーという温かいおもてなしという言葉もこのホスペスから生まれました。キリスト教系のサポートがある緩和ケアがホスピス。仏教系のサポートがある施設がビハーラ。宗教的な色合いのない空間を緩和ケア病棟と区別するとわかりやすいかもしれません。
この国のがん治療対策は後手後手にまわっている
現在日本では、約300万人のがん体験者がいると推定されています。日本人の死因の第1位はがんで、毎年30万人以上の人が、がんで亡くなっていますが、この国のがん治療対策は後手後手に回っているように思います。
国民が誠実に一生懸命働き、豊かな国にしました。しかし、高速道路網を全国に作るようなリーダーシップをとる、医療に理解のある豪腕な政治家がいなかったせいでしょうか。日本のがん治療はお寒い状況の中でゆっくりとしか進歩しないできました。
第三次対がん十カ年総合戦略も作られ、国としては巻き返しを図ろうと努力を始めています。先端医療が決して遅れているわけではないのです。あるところに行けば、先進国で受けることのできる医療と同等のがん治療が行われていることは事実なのです。しかし、国民の誰でも、どこでも、いつでもという視点で言えば、がん治療の質も量も十分とはいえないのが日本の現状だと思います。
先進医療だけでなく、緩和ケアも十分とはいえません。今年の1月の段階では、全国に緩和ケア病棟は139施設あり、総ベッド数は2629床です。厳しい状況にある、がんの患者さんの1割くらいしか緩和ケア病棟を利用することができません。まだまだ不十分な状況にあります。
スピリチュアルな痛みの緩和が見事に行われている
緩和ケア病棟のことをパリアティブ・ケア・ユニット(Palliative Care Unit)といいます。略してPCUです。パリアティブとは和らげるという意味です。元々の語源はパリウム(Pallium)で、マントと言う意味がありました。パリアティブ・ケアとは、マントで包むようにして暖かくして和らげてあげること。人生の旅の中で、体や心が疲れた方に対し、マントで包むように暖かくして心を和らげてあげるケア、という意味を持っているようです。

諏訪中央病院の緩和ケア病棟では、“緩和ケアとはがんがあることによって生じる不都合に対し、可能な限り対処すること”と定義しています。とくにターミナルステージと限っているわけではありません。がんによって体や心や、環境がつらくなったとき、緩和ケア病棟を利用して体制を立て直して地域や自宅へ帰っていく。そんな止まり木のような病棟を目指してきました。入院したら死ぬまで見てもらうところと決めていません。状態が良くなり、体や心の痛みが取れたならば、家に帰りたい人はよく家に帰ります。
そして家にいる間を往診という形で支えるために在宅ホスピスケアというシステムを作り上げました。同じスタッフが、外来緩和ケアや在宅緩和ケア、病棟での緩和ケアを行っています。人間関係を新たに作り直す必要がなく、一連の同じメンバーによって1人の患者さんと家族を支えようとするシステムを作ってきました。
先ほどWHOの緩和ケアの目的は、患者と家族の最良のQOLの達成であると書きました。QOLとはクオリティ・オブ・ライフの略で、人生の質とか生活の質と訳しています。人生の質や生活の質を高めることが、どれだけ実現されているかどうかが大切なのです。ここがとても大切なのです。その人の人生の可能性をどれだけ広げられているか。その人がどれだけ自由に自分らしく時間を過ごしているかが、QOLの評価になると思っています。
人生の大切な時間をその人らしく生きるために、まず痛みの緩和を目指します。しかもその痛みには4つの痛みがあるといわれています。肉体的な痛みだけではなく、社会的な痛みや精神的な痛み、そしてもう1つ、日本人にはなかなかわかりにくいスピリチュアルな痛みがあると言われています。魂の痛みと訳したらいいのでしょうか。スピリチュアル・ケアとは、それぞれの人生の意味や、人生の目的を再確認できるように援助することだと思います。且つ人間関係における許し、和解、人生の価値の再発見に関わること、と僕は考えています。
僕は淑江さんを、素敵な人だと表現したりチャーミングと表現したり、すごいと表現してきました。今回の手紙でも、のぶちゃんのお話を聞いて、ああ、やっぱりすごい人だなぁと思ったのです。緩和ケア病棟で目標にしている4つの痛みの緩和のうち、一番難しいとされているスピリチュアルな痛みの緩和を、実に見事に軽々と、あるがままの姿のまま和解し、人生の価値の発見を無意識のうちにきちんと行っているように思えたのです。本当にすごいと思います。
ユーモアは命の力になると信じています
もう1つ、あなたの優れた点を書き記してこの手紙を終わりたいと思います。うけを狙ったような少し下品なユーモアと違い、あなたにはなにか天然のユーモアがあります。ユーモアは、命の力になると僕は信じています。来年の2月を目指して僕は『命とユーモア』という本を出版する準備を進めています。
冗談なんか言えないつらい状況にもかかわらず、つらい状況だからこそユーモアが必要なのでしょう。つらくなればなるほど、苦しくなればなるほど、悲しくなればなるほど、人間にとってユーモアは大切なのです。
淑江さんがすごいのは、ユーモアが大切だからと頭でっかちに無理してユーモアを大事にしている感じではなく、無意識に言ったりやったりしていることそのものの中に、淑江流のユーモアを感じるのです。
ユーモアと笑いは緊張を緩和します。交感神経緊張状態から副交感神経緊張状態へ切り替えることができます。副交感神経が刺激されるとリンパ球が増え、免疫機能が少し高まります。ユーモアと笑いは心と体の共同体を形成する原動力となります。笑いとユーモアは、不安やいらだちや怒りやおそれを少しだけ緩和してくれます。まじめとユーモアは両立し、誠実とユーモアも両立します。あなたは誠実で、まじめで、おもしろく、ユーモアに富んでいます。
がんばらないはがんばってきた人の特権
2001年7月に卵巣がんの診断がついてから今日まで、逃げずによく闘ってきました。病気との闘いの中で、言いたくても言えない言葉がいっぱいあったと思います。声に出すとたちまち色あせてしまうような言葉たち。きっと、ギュッと心の中に押し込めた言葉たちがたくさんあったのではないかと思います。つらかったでしょうね。ユーモアにくるんで言いたいことを言ってください。がまんなんかしなくて良いのです。
今月中には淑江さんおすすめの『チャーリーとチョコレート工場』は公開されるのですか。僕の知らないジョニー・デップという淑江さん好みの男優を観てきます。次回の手紙はジョニー・デップを肴に、語り合いたいと思います。病気から目を離さず、逃げずに自己決定をしながら、誠実に精一杯生きている淑江さんを素敵だと思っています。新しく移った緩和ケア病棟で、大切な2人の娘さんと、のぶちゃんと、たくさんの友人たちと、きっと良い時間を過ごしていると想像しています。
淑江さん、よく頑張ってきましたね。ちょっとだけ一休み。自分自身にご褒美をあげて一休みしましょう。人間はときにがんばり、ときにがんばらなくて良いのだと思います。
がんばってきた人の特権としてがんばらないときが許されているのだと思います。
肝臓機能と肺機能が気になりますが、僕はあきらめていません。がんばらないけどあきらめないです。先のことはわかりませんよ。あなたが再び元気になるという希望を、僕は持ち続けています。
また、お手紙いたします。
2005年夏
鎌田實
金子淑江さま
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