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巨大地震発生!そのときがん患者は、看護師は、医師は

取材協力:片倉隆一 宮城県立がんセンター副院長
松田芳美 宮城県立がんセンター地域相談支援センター・がん看護専門看護師
発行:2011年6月
更新:2013年9月

不安なライフラインの中での復旧

[表 宮城県立がんセンター震災から復旧まで]

3月 11日 東日本大震災発生
電気・ガス・水のライフラインが停止
電気は自家発電機によって最低限の電気を発電
水は貯水タンクで2~3日分があり、対応
13日(震災翌々日) 自衛隊による水・食料(パン)、薬剤の供給
14日(震災3日後) 電気・ガス・水の供給再開
外来診察開始。薬剤の処方(10日分)も行う
15日(震災4日後) 緊急手術開始
16日(震災5日後) 地域相談支援センターの電話相談業務再開
20日(震災8日後) 薬剤処方(14日分)を行う
28日(震災から17日後) 手術、放射線、抗がん剤治療のすべての治療を通常通り開始

1夜明けた12日から、徐々にではあるが同センターをめぐる状況は好転に向かう。

13日に自衛隊による水の補給が行われ、パンや薬剤も供給された。重油の補給がまったく途絶えていたために電力の枯渇が懸念されていたが1日置いた14日、ギリギリの段階で水道やガスとともに電力供給が再開される。そうした中で同センターは、同じ日から外来診察を再開する。さらに翌日からは緊急を要する手術も可能になった。地震発生から3日目、同センターはようやく、万全とはいえないまでも本来の機能を取り戻しつつあった。

写真:食料や水の供給は自衛隊によって行われた

食料や水の供給は自衛隊によって行われた

16日には電話も復旧し、相談支援センターの松田さんは本来の「何でも相談」業務を再開、センターでの医療業務の復旧についての問いかけや避難先での受診に必要な紹介状を求める患者さんの声に応え続ける。

しかし実はその2日前の14日から松田さんは、自発的に患者サポートにも取り組んでいた。それは震災によってさまざまな不安、恐れに苛まれる入院患者さんのサポートだった。患者さんの気持ちを少しでも癒やせればと、松田さんは各病棟を回り始めていた。

患者の心を癒やしに病棟へ

もちろん同センターには、うつ症状などに苦しむ患者を対象に、心のケアを行う臨床心理士などの専門スタッフもいる。しかし、松田さんの念頭にあったのは、それとはまた違う、患者さんの日々の暮らしに根ざした相談支援活動だった。

「私たち看護師は日ごろから患者さんと接していて、病気のことも厳しい治療のことも十分に心得ています。だから治療者と患者の関係ではなく、もっと打ち解けた関係で患者さんから本音を聞くことができる。相手が苦しそうなら、手を握ることもできるし、背中をさすってあげることもできる。1人の人間として、患者さんに共感しながら、現実に根ざした悩みをともに考えることができるのです」

松田さんはがん看護専門看護師として、各病棟のナース・ステーションを回って情報を集め、看護師からの要請に応じて対応を進めていく。そうして松田さんは多くの患者さんとさまざまな悩みを分かち合った。

治療中断に大きな不安を抱える

たとえば80代の食道がんの男性は、予定されていた放射線治療が受けられなくなったことに不安を覚えていた。放射線治療の再開にはまだ当分、時間がかかりそうだ。そこで暫定的に抗がん剤による治療が提案された。男性もその提案を受け入れた。しかし、実際には男性は当初の予定が変更されることに不安を覚え、話を聞いてもらいたがっていた。

松田さんは、じっくりと話を聞き、男性の不安を受け止めた後に、抗がん剤治療を始めてがんが縮小した段階で放射線治療を再開することもできると、丁寧に説明した。松田さんの話を聞いて、男性はほっとした表情を浮かべ「これで安心できた」と、新たな治療に臨むことを決心したという。

「その患者さんも頭の中では、治療の変更も仕方ないと受け入れていたのでしょう。でも、その判断を誰かに肯定してもらいたかった。治療に臨む前に心の支えを求めていたということではないでしょうか」

結果的には、センターの放射線治療は予想よりも早く復旧し、その患者さんは当初の予定通りに治療を受けている。

また血液がん患者さんが治療を受けられないことによる不安を訴えるケースもあった。その患者さんはそれまで無菌室で、骨髄移植を前提にした大量の抗がん剤による治療を受けていた。ところが震災によって電気供給が途絶えたために、無菌室が維持できなくなり、治療が中断されることになったのだ。

その患者さんは自分でも、血液がんについて勉強しており、そうした中での治療中断だっただけに困惑も深かった。センターでは移植治療を行うために東京への転院も打診した。しかし、患者さんはその申し出を辞退した。家族がそばにいるからこそ、つらい治療にも耐えられる。家族と離れてまで治療を受けたくないと松田さんに話したという。松田さんは何度も話を聞き、そうした思いを受け止めた。その結果、患者さんは新たな決断を下したという。

「最悪、移植ができないならそれでもかまわない。余命がある間は精いっぱい自分らしく生きられれば納得できると話されるようになっていたのです」

その患者さんの場合は現在も代替治療となる抗がん剤治療を受けている。

人海戦術で消息をつかむ

相談の中には、家族の安否がわからないことによる不安を訴える声もあった。

たとえば、ある男性がん患者さんの場合は震災時に奥さんが見舞いに来院していた。その奥さんが震災で甚大な被害を受けた石巻市に暮らす長男を心配して訪ねていったまま、連絡がつかない状態になっていた。長男に連絡しようにも電話番号がわからない。そのため、その患者さんは不安が募り続けていた。この場合の解決策はいわば人海戦術だった。長男の連絡先は実は入院時に提出された申込書に記載してあった。もっとも震災の影響で電話の接続状況が悪く、なかなかつながらない。

そこで松田さんは何人かの病棟看護師とともに、暇をみては同じ番号に連絡を続ける。そうして何時間か後には、長男と連絡がとれ、奥さんも無事であることが確認できた。そう告げたときのその患者さんの安堵の表情が、松田さんは今も忘れられないという。

こうして松田さんは、患者さんの不安や悩みをともに分かち合い、彼らの心を癒やし続けた。そうした松田さんの活動も手伝ってのことだろう。時がたつに連れて、病棟には静けさと落ち着きが取り戻された。

また時を同じくして、片倉さんが陣頭指揮を執っていた、急患センターの業務も縮小していった。一時は1日100人を上回っていた受診者は2週間後には20~30人に激減し、その役割を終えることになった。それは名取市での医療体制が通常時の状態に戻りつつあることを意味していた。

そうして震災から17日後の3月28日、同センターは手術、放射線、抗がん剤治療と、すべての治療を網羅した通常の業務体制に復帰した。

それは震災による受難を耐え抜いた同センターの新たな出発の第1歩でもあった。

患者受け入れはこれからが本番

写真:食料や水の供給は自衛隊によって行われた

仙台駅は震災で立ち入り禁止になった。交通機関がストップしたため、通院患者さんは車での来院を余儀なくされた

私たちが取材に訪れた4月中旬、宮城県立がんセンターには震災の爪跡はまったく残されていないように思われた。建物外観にはほとんど損傷の跡はなく、外来ロビーで立ち働くスタッフや患者の表情も屈託がないように見える。

しかし、実際のところは違った。上階の窓外からは津波にのみ尽くされ、壊滅状態に陥った閖上地区の光景を臨む。

名取市の医療体制はまだ完全には復旧しておらず、取材時も同センターでは軽症者を対象とした24時間の診療体制は継続中で、関連施設が設置されていた7階も閉鎖されたままだった。それに何より震災後のセンターとしての取り組みもまだ終わってはいない。

「他病院からのがん患者さんの受け入れはこれからが本番でしょう。すでに10名程度の患者さんを受け入れていますが、もっと増えていくことになるでしょうね」

と副院長の片倉さんは話す。

一見すると平穏に見える状況の中で、同センターは被災地域の医療復旧に向けて動き続けているのだ。もっともわずか17日でこの病院が通常体制への復帰にこぎつけているのも事実だ。それは片倉さんや松田さんを含めた個々の医療スタッフたちの奮闘に支えられたものであるに違いない。

「それがうまくいったかどうかはわからない。ただ自分としてはやれるだけのことはやったと思っています」と、松田さん。

もちろん予断は許されない。3月11日の地震発生から現在に至るまで余震は間断なく続いている。それより何より、地震国日本では同様の災害が起こらないという保証はまったくない。

しかし、そのことを考えると、震災後の同センターの医療スタッフたちの取り組みはより大きな意味を持って浮かび上がる。

松田さんは、「なんとしても患者さんを守らなくては」と考え、その通りに行動した。宮城県立がんセンターのあり方を象徴するかのようなその言葉は、すべてのがん患者さんの信頼に十二分に値する――。


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