【第二十九時限目】分子標的薬 分子生物学的な理論に基づいて開発された分子標的薬のABC

監修●戸井雅和 東京都立駒込病院外科部長
構成●吉田燿子
発行:2006年4月
更新:2019年7月

異常な増殖シグナルを止める薬

次にご紹介するのは、分子標的薬の中でも「シグナル伝達阻害剤」と呼ばれるものです。これは、がんと深く関係する分子が出す異常な増殖シグナルを止め、がんをやっつけるというもの。その代表的な薬が、グリベック(一般名イマチニブ)です。 グリベックは2001年11月に日本で承認され、今では慢性骨髄性白血病の標準治療薬として使われています。

慢性骨髄性白血病の患者さんのほとんどに見られるのが、「フィラデルフィア染色体」という異常な染色体です。この染色体上にある「Bcr-Abl融合遺伝子」こそ、病気を引き起こす張本人。コヤツが作り出す異常なタンパク質が増殖シグナルを送り始め、チロシンキナーゼという酵素が活性化すると、白血病細胞が異常に増殖し始めます。いわば「増殖しろよ~」と呪文を唱えて、がん細胞をどんどん増やしていくわけです。

この異常なタンパク質は、ATPと結合して活性化し、ますます悪業の限りを尽くします。そこで自ら異常タンパク質と結合し、チロシンキナーゼの働きを妨げることで、ATPと結合できないようにしてしまうのが、グリベック。人の恋路を邪魔して悪の呪文(=シグナル伝達)を止めることで、がんの増殖を抑えるというわけです。

グリベックの登場は、慢性骨髄性白血病の患者さんにとって、まさに福音ともいえるものでした。なにしろ、骨髄移植以外に治療の道がなかった患者さんが、錠剤を飲むだけで治療できるようになったのですから!

便秘と吐き気などの副作用はありますが、それでも今までの抗がん剤に比べれば軽いもの。現在グリベックは、慢性骨髄性白血病と消化管間質腫瘍(GIST)に使われています。

日本で発売されているシグナル伝達阻害剤としては、他にイレッサ(一般名ゲフィチニブ)があります。これはチロシンキナーゼの活性化を抑える分子標的薬で、2002年7月に日本でも非小細胞肺がんの治療薬として発売されました。この薬は東洋人で女性、非喫煙者、肺の腺がんの患者さんに対して、めざましい効果を表すとされ、卵巣がんや胃がん、大腸がんなどの腺がんの治療にも応用が期待されています。

分子標的薬としては、他にも前回ご紹介した「血管新生阻害剤」があります。また、DNAの断片によってがん遺伝子の働きを妨害する「DNA薬剤」の研究も進められています。

分子標的薬の長所と短所

この辺で、分子標的薬の長所と短所を整理してみましょう。

分子標的薬の長所は、「分子生物学的な理論に基づいて開発されているので、効果と副作用があらかじめ予測できる」点。

一方、最大の短所とは、「コストが高いこと」に尽きるでしょう。分子標的薬1種類で、月間30万円もの費用がかかります。アメリカではハーセプチンと血管新生阻害剤アバスチンを組み合わせた治療なども行われているようですが、今のままでは高嶺の花! 一刻も早く、だれもが気軽に分子標的薬を使える時代が来てほしいものです。

では、副作用はどうか。

本来なら、「がん細胞にしかないターゲットを攻撃する」というのが分子標的薬のウリだったはず。ところが、「がんだけ��ある分子」を探し出すのは至難の業です。したがって、正常細胞への悪影響(=副作用)が全く出ないわけではありません。「副作用が軽い」といわれるハーセプチンにしても、皆無というわけではないのですね。その1例が心臓障害です。HER2遺伝子には心筋細胞のストレスを抑える働きもあるので、ハーセプチンを使うと、20人に1人の割合で心不全などの心臓障害が出ることがあります。しかし今では心機能をチェックするなど副作用の予防が進んでいるので、日本で重篤な副作用が出たケースはほとんどないのです。

一方、副作用が大きな社会問題になったのが、前述のイレッサです。イレッサがなぜ重篤な副作用をもたらすかについては、いまだによくわかっていません。

いまだに解明されていない部分も多い分子標的薬ですが、研究は端緒についたばかり。では、今後、分子標的薬にはどのようなことが期待されているのでしょうか。専門医の先生はこう語ってくれました。

「従来の抗がん剤の開発手法は20世紀で終わった、といわれています。これからは分子標的に基づいた創薬がスタンダードになる。がんの化学療法も、非常にエキサイティングな時代に入りつつあるのです」

「がんの増殖シグナル伝達のパターン(=標的)は約700あるといわれています。したがって、患者さん毎にがんのシグナルを特定できれば、どの薬剤を使えばいいかがわかるようになる。今はメインの標的を順番につぶしながら、薬剤開発を進めている段階。患者さんのタイプに合わせて分子標的薬を使いこなす時代が来るのも、そう遠い先のことではないでしょう」

今や日本でも、分子標的薬への期待は着実に広まりつつあります。過度の期待は禁物ですが、慎重に、でも、あくまで前向きに! 希望を持って治療に取り組むことが、何よりも大事だと思うのです。

1 2

同じカテゴリーの最新記事